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3.越中国
越中国はいまの富山県にあたる。古代の高志国が大化改新後、越国(コシノクニ)となり、七世紀天武天皇の頃、越前・越中・越後に分けられた。大宝二年(702)頸城・魚沼郡を越後へ分出。天平十三年(713)越前から能登四郡を編入。天平大宝字元年(757)能登国独立後、新川・婦負・砺波・射水四郡で…国となる。
日本海の寒流と暖流が、ぶつかる富山湾に面し、漁獲も豊富。東の山岳地帯には立山連峰が讐え、平野は豊かな穀倉地帯である。国府・国分寺は高岡市伏木古国府にあった。

鎌倉時代は比企・名越氏、室町時代は畠山氏が守護。戦国時代末には佐々成政が領主となったが、豊臣秀吉に抵抗し追われる。江戸時代は前田百万石に旬括される。廃藩置県後、石川県の一部から明治十六年(1883)富山県となる。越中国には、一宮を呼称する神社が四つもある複数一宮の国である。これには、律令制国家支配体制から、武士階級の分権的封建制支配、神仏習合仏教優位等、歴史的時代の変遷によるものがあり、巡歴者も迷う複雑な一宮問題の国である。

◎越中一宮高瀬神社
          〒932-0252 富山県南砺市井波町高瀬 TEL0763-82-0932
この高瀬神社と高岡市伏木の気多神社が一宮の地位を巡り紛争したことがあった。室町時代の『大日本一宮記』は「越中砺波郡気多神社」としている。伏木気多神社は射水郡である。古くは両社とも「気多」であった。祭神も大己貴命で同神である。

●祭神 人己貴命 配神 天活玉命 五十猛命(須佐之男命の御子、木の神)
『延喜式内』越中三十四座うち国幣小社(伏木気多神社名神大社)、貞観元年正三位』明治六年県社。大正十二年国幣小社。

●かうらい権現・高麗権現・高麗明神ともよばれ、高麗国からの渡来神ともいう。社前の川は神様が足袋を洗ったといい「たび川」という。中世には神仏両道、高麗山深法寺勧学院(真言宗派)。宿坊は三百余もあり繁栄していた。室町・戦国の兵火で社運は衰えた。しかし、隆盛期を偲ばせる神小畑・鎌倉屋敷・勧学院等の地名が残っている。江戸時代安永年間(1772-81)近郊の村民が再興した。神社の南に、東大寺領高瀬庄として、中世の荘園阯、高瀬遺跡がある。●伝統工芸「井波彫刻」江戸時代京都から伝わる。欄間・置物・衝立等、全国各地の神社仏閣にも井波彫のもの多い。

◎越中一宮気多、神社
       〒993-0113 高岡市伏木一ノ宮大平 TEL 0766-44-1835
神社の所在地は一ノ宮。近辺に越中国府跡の古国府(フルコフ)や国分寺跡がある。当初、全越中(能登を含む)の一宮は羽咋の気多神社であった。天平宝字元年(757)能登国が分立しセ頃、羽咋気多社から、この越中国府に勧請されたという説。羽咋気多社揺拝所から独立の神社に昇格した説かある。(『高岡市史』)
いずれにしても、一宮は第一番に国家安泰行政祈願を国司がする律含時代の慣習上、この気多神社は四つの一宮では先達、元祖の一宮といえる。
●祭神 主神 大己貴命・奴奈加波比売命(奴奈川姫)ほか六神大国主命には多くのお妃がいらっしゃる。
@正妃須勢理姫命(隠岐一宮由良比女神社) A八上比売主命 B神屋楯比売命(事代主命、恵比須天の母) C多紀理姫命(宗像三女神、陸奥一宮都々古別神社・土佐一宮土佐神社、味絽高根彦命と伯耆一宮倭文神社、下照姫命の母) D三穂津姫命(丹波一宮出雲神社 E奴奈川姫命(越国、ヒスイの女王)。

●中世神仏習合時代の別当寺は慶高寺で僧坊寺院が四十九坊あり、戦国の兵火で再三焼失し社運衰退。江戸時代前田藩が庇護し再建。現本殿は室町期の作風を残し、国重要文化財に指定されている。

●大伴家持歌碑 馬?馬手いざ打ちゆかな 渋谷の 清き磯廻(イソミ)に寄せる波見に(万葉集三九五五)。大伴家持は奈良時代、天平十八年(746)から天平勝宝三年(751)の五年間)。越中の守としてこの伏木の地に赴任していた。この間、越中の風物や自然に引かれ、二百二十余の万葉集を残した。

戦時中、古代から甦り盛んに歌われた長歌
「海ゆかば水く屍、山ゆかば草むす屍 大君のへにこそ死なめ かえり見はせじ」。この伏木在任中の作歌である。

◎越中一宮射水神社(イミズジンジャ)

    〒933-0044 高岡市古城1−1 TEL 0766-22-3104
三つ目の越中一宮射水神社は現在、高岡市古城公園内にある。『六国史』にある。『六国史』にある神階昇進の記事にはニ上神(フタガミ)とする。射水神と二神神は同一神としるのが通説となる。