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 この神社は二社あり、二上山麓の本宮が、明治8年、神道改革により旧高岡城祉へ遷座した。しかし、旧二神社はこれに異議を唱え、「越中総社射水神社」として本宮の立場で、古城公園の旧国幣中社「越中総鎮守射水神社」を新宮として対立している。原因は別当寺の養老寺の社僧と宮司サイドとの対立であった。二上の神社には平安時代の作、本造男神神座像(86a県指定文化財)がある。

●祭神 二上神(フタガミノカミ)
 明冶の神社明細帳に「
覆々?衿?尊座」とあった。か、仏教の習合説として否定。大正十一年(1922)明細書誤記訂正を内務省神社局に出願し、国史記載の「二上神」に復活。旧来は二上大権現といわれ、二上神に関しては、専門学者間でも次ぎの四説がある。
@建内宿璽 A建内宿璽の孫の伊彌頭(イミズ)国造の祖、大河音尼(オオカワドノスクネ) B大牟羅雲命(別名、天二上命、天孫降臨供奉三十二神) C大己貴命しかし、何れも確証がない。二神山を中心とした射水郡地方の地主神、国魂神と見なされている。

●由緒 明治三十六年、「射水神社明細書」より。「往古ヨリ越中國射水郡二上村二上山第二鎮座ナリ。鎮  座年月未詳。養老元年、勅ニヨリテ僧行基、其地二仏閣ヲ建テ養老寺ト號シ、社地殿廣大ナリシト云。賓亀十一年十二月甲午朔甲辰越中國射郡二上神叙従五位下(後略)」。後、貞観元年(859)正三位。この由緒書には 『延喜式』名神大社とあるが、九條家本や宮内省圏書寮所蔵本によると気多神社に「名神大」とあり、射水神社にはその註記がない。中世、社家社僧が多く神仏混合。戦国の兵火で焼亡。江戸時代前田藩が
再建。明治維新、廃仏稀釈で仏具を排除。社僧を復飾させる。明治四年、国幣中社。

●越中一宮争い 『白山記』(加賀白山比?祥榊社所蔵平安時代の古文書)から。「二神(フタカミ、二神射水 神社)がもとの一宮であったが、新気多が之を争ひ、二神が力なくして新気多に一宮をとられた・・・」。新気移は能登よりこられた気多の神。(国庫より明治三十三年(1900)六月二十七日、高岡市大火で焼失。明治三十五年再建。(国庫より二万五百円下賜)した。戦前の旧官幣・國幣神社の建造、改築経費等の多くは国家が負担していた。

●大伴家持の歌、二上山は二つの頂のある聖なる山である。越中国司家持三十蔵、天平十九
 年(747)三月三十日。玉くしげ 二上山(フタガミヤマ)に鳴く鳥の 声の恋しき 時はきに来こけり
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◎越中一宮雄山神社(オヤマジンジャ)
   〒930-1368 富山県中新川郡立山町岩
?噛寺1 TEL 076-1148
立山を霊峰とする古代山岳信仰に起源する。立山山頂の奥宮峰本社・山麓中宮雄山神社祈願殿・大宮雄山神社前立社壇の三社一体の神社としている。『延喜式内』小社。立山権現とも呼ばれていた。貞観五年(863)正五位上、寛平元年(889)従四位下。文武天皇・大宝元年(701)越中守佐伯有若が、子の有頼(法名慈興)を仏門に入れ、創建したと伝える。古くから社領の寄進なども多く、足利義植・佳々成政・前田利家ら
も永代寄進や社領などを寄進している。明治の社格は県社。

●祭神 天手力男命(アメノタジカラオノミコトい伊邪那岐命(イザナギノミコト)天手力男命は高天原天岩戸事 件の時、その強力で岩戸を開き、天照大神を外へお導きした神様である。天孫降臨に供奉し、伊勢の佐那県におられたという。伊勢皇大神宮の相殿にも紀られている。神仏習合時代は、本地仏「不動明王」として祭祀されていた。

●雄山神社前立社壇 社殿は室町期明応年間のもの。五間社流造、国重要文化財。

●一宮とする文献「
?迎々越中一ノ宮ヲバ立山権現ト申ス」(安居院『神道集』南北朝時代。中世以後、修験 道立山信仰が盛んになり、立山神を一宮とした時期があったのだろう。

●明治の神仏分離で仏教色は排除された。立山の奥宮へは女人禁制で女性は中宮芦姥堂」の女人堂へ参 詣していた。ここには「姥像」六十九体があった。

●立山に降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし 大伴家持