敵味方鎮魂・地球平和祈願
  壱岐国ルネッサンス始末記


     壱岐国から伊勢国・伊賀国へと敵味方鎮魂
全国一の宮巡拝会世話人代表 入江孝一郎


古代壱岐国の地に新しく壱岐市が誕生したのを祝い蔵元が合同で焼酎「壱岐市」を発売したのを壱岐国ルネッサンスのポスターを書いてくれた長岡秀星さんの同窓の竹富鉄一さんから贈くられた。壱岐とかかわつたのは、壱岐国−の宮天手長男神社宮司不在となつたのを知り、諸国一の宮巡拝者が困ると、壱岐で知り合った有馬黎子さんに働きかけたのが始まりである。有馬さん占部英幸さんと広がり、天手長男神社氏子も立上がることが知らされた。元冠の役で壊滅し、江戸時代初期に平戸藩主の命をうけた橘三喜が壱岐島の廷喜式内社24社を調査し、藩主松浦鎮信が−の宮の社殿を寄進した。明治になりさびれ島の人にも忘れられた。

壱岐国一の宮が元気になるのは、元冠の役の鎮魂からと提案し、社殿も修築することとなつた。それが壱岐国分寺、渡辺義道和尚に伝えられ、「僧侶として意義あること」と除夜の鐘の音を携帯電話て聞き、和尚から力強い声を聞いた。壱岐国分寺は臨済宗の寺で元冠の役のあとすぐ弘安5年(1286)北条時宗は「敵味方供養」のため鎌倉円覚寺を建立したことを改めて認識した。神仏が共に行う意義の大きさを思った。そのうち観光協会もというので、「壱岐国ルネツサンス」として『魏志倭人伝』の邪馬台国は壱岐から始まるといわれるのも加えることになつた。721年の歳月を経て、玄海灘の藻屑となつた霊魂がよみがえつたのである。

 
この計画で初めて壱岐に訪れると壱岐国分寺渡辺和尚は、除夜の鐘のとき聞いた元気がなく、なにか空気は変わつたようである。壱岐国ルネッサンス実行委員会役員に聞くと、やるという意向があつたのでモンゴル国へ僧侶の招聘に行つた。そしてモンゴル国最高の寺院八ンバラマ館長猊下を招聘し、モンゴル密教・日本の神仏あげて元冠の役敵味方鎮魂地球平和祈願を行い、同時刻に諸国一の宮において同様の鎮魂地球平和祈願をした。これにモンゴル駐日大使、前大使も参列して世界に発信した。

 
モンゴル国民は元冠の役のことを知らないので、今回モンゴルテレビが同行し、八ンバラマ管長現下が戦をめぐって祈る姿をモンゴル国内で放映したことが伝えられた。壱岐国ルネッサンスは、企てから推進にいたるまで、最終的に全国一の宮巡拝会が実行することになつた。有馬さんから壱岐の人と食事の機会をというので、壱岐最後の日に、宿泊のホテルでパーティを計画したら、壱岐国ルネッサンス実行委員会が仕切つたので普通のパー ティなつてしまつた。

 八
ンバラマ館長猊下一行は、筑前・山城・大和国一の宮、仁和寺・高野山と清浄なる聖地を巡拝し、千秋楽の両国国技舘でモンゴル出身の朝青龍横綱の優勝戦を観戦、その夜は東京丸の内のパレスホテルでお別れパーティを開き、翌朝、721年前の敵味方鎮魂供養を念って鎌倉円覚寺舎利殿の中で祈り、足立大進管長と面談してモンゴルヘ帰った。

 
壱岐国ルネッサンスが、元冠の役で死んだままになっていた霊魂への「敵味方鎮魂地球平和祈願」となった。記紀に示されている伝統的神道は、味方より敵を手厚く祀ることであり、それを実行したことは画期的なことであった。壱岐から3月29日には、伊勢国水屋神社で「北畠具教軍・織田信長軍敵味方鎮魂地球平和祈願」として実現した。さらに伊賀国−の宮敢国神社で「天正伊賀の乱敵味方鎮魂地球平和祈願」とつづくことになった。壱岐国で−つの灯火が灯されると、つぎつぎと広がろうとしている。壱岐国ルネッサンスでは目に見えない力に動かされている。風の便りで壱岐国分寺渡辺和尚が亡くなられたことを聞いた。狭間に入り悩まれたことであろう。ご冥福を祈る。

 
壱岐国−の宮において元冠の役敵味方鎮魂を実施することは、721年前にそこで亡くなった人々の霊魂が救いを求めての発信と念い、これを天命と感じて取組んだ。お金のことにかかわらずに行動をしたのである。結果は「巡拝会会報第20号」で収支決算報告をした通りである。草の根の全国の会員・壱岐の人々の浄財によって実施できた。

 −の宮巡拝する人々の集まりが、念いもよらぬ「敵味方鎮魂地球平和祈願」を国際的規模で実現できたことである。天下武布を宣言し、統−を目指した織田信長は、中世から近世に歴史の舞台をかえるため多くの虐殺をした。その怨念をはらす「敵味方鎮魂地球平和祈願」と全国−の宮巡拝会にさらに課せられた。

 宿年の玄海灘に漂う元冠の役の霊魂が鎮魂された。壱岐国ルネッサンスは、その扉を開いたのである。壱岐国−の宮では、毎年この日に鎮魂を行い、巡拝会からも鎮魂祈願をする。目に見えない世界が如何に大事なことであるか、伊勢国・伊賀国へと自然と広がっていることをみればわかる。壱岐市誕生で壱岐国が復活し、この目に見えない世界のフロセスを理解するとき、本当の壱岐国ルネッサンスの果実が実るのである。


 
壱岐は漁業と農業の収入と観光収入が同じで、島の経済を支えているという。観光の占める割合は大きい。しかし、観光は経済だけで計れるものではない。経済優先にしてきたツケが全国の観光地にあらわれている。「敵味方鎮魂地球平和祈願」を観光イベントと考えたところにも壱岐の人の間違いがあった。

 
観光は光を観る、人の温かさで、人をもてなすことが基本である。これを助長してくれるのが自然であり、そこの歴史・民俗習慣である。壱岐国ルネサンスで『耶馬台国五文字の謎』(角田彰男著)を記念出版したが、壱岐の人はどんな評価してくれたか解らない。

しかし、朝日新聞などに書評が載り注目されている。また、歴史の深さは廷喜式内社が壱岐国には24社も現存しているのも誇りに念わなければならない。感謝の気持をもつことである。訪れてくれる人に感謝の念いが観光の心である。目に見えない世界を感じることが、観光の温もりを自然に醸成でき、壱岐国ルネサンスは教訓であった。

参考:
【1】壱岐国ルネッサンスの趣旨に賛同された宮司、一の宮巡拝会の発案で壱岐国ルネッサンスU、Vと各地に広がっている。
【2】全国一の宮巡拝会代表世話人 入江孝一郎様は、去る平成16年5月20日、神社本庁において”神社文化賞 と 金一風が授与された。




熱く 夢を、未来の壱岐を語った 壱岐卜部氏の子孫。
 地球は狭くなった。壱岐の子どもたちにも早い時期から世界を見せて広い視野で壱岐も見えるようにしたい。今回は、ある小学校の校長先生のメッセージを携え、日本モンゴル国が壱岐国ルネッサンスをきっかけに壱岐の子どもをモンゴルの草原に、モンゴルの子どもを壱岐の玄界灘の海原に・・・・きっと、きっと、心が広がる、またとない機会と熱く熱く、ガンダン寺で、外務省で、科学・文化大臣との会話で語っていた。ことが今も忘れられない。


コメント 
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・侵略され、島民が全滅に近い犠牲を受けながら、わざわざモンゴル人を呼んで慰霊・鎮魂するとは何事かと・・・一部には意見がありました。

日蓮は
「百姓等を、男をば殺したり生取にしたりし、女をば取り集めて手をとおして船に結いつけたり生取りしたりした。一人も助かった者はなかった。壱岐を攻め寄せたときもまた同じであった」と悲惨の状況を伝えている。

壱岐国ルネッサンスの話を聞かれた国分寺渡辺義道和尚様は”天からこの日のために遣わされたようです。全知全霊をかけてお勤めします”ということだったそうですが、・・・結果的に心労からご病気を併発、帰らぬ人となられました。合掌!!

また、わが心を育んでくれた曹洞宗にも、以心伝心を期待しながら、 全国68ヶ国一ノ宮が9月18日11:00に、一斉に共同祈願が行われますのでそれに呼応して壱岐のお寺も、暮れの除夜の鐘のように、壱岐の小島から世界へ、
”地球平和のメッセージを”ゴーン”と鐘の音”にのせてほしいと誠に勝手ながらお願いしました。鐘の音は聞こえなかった。
 衆生の無知

偶然か壱岐国ルネッサンスと時を同じくしてノモンハン事件の遺骨収集の許可は文化の相違でできないでいたがこれを機に実現した(他の民間の活動と併せて)。そして、平成16年7月28日から遺骨収集団が出発した。また、8月28日にはガンダン寺で、同事件の犠牲者の慰霊祭が行われた。その時の
現地新聞報道
チンギスハンの霊廟発掘
同じ元寇の役犠牲の島”鷹島” ”鷹島中学校”のホームページ。には交流の姿を見ることができます。
モンゴル訪問記
(ソ連の崩壊後モンゴル国の歴史は再編集されています)

元壱岐国ルネッサンス東京有志