理他行」「自理行」
上田
 「日本仏教が戒律を守らない」というのは「なるほど」とおもいました。儒教でも日本に教典がたくさんはいったけれど「礼」というのはついにはいらなかった。 それはまた仏教や儒教だけではありません。日常、電車内で見かける風景もそうです。子供連れや老人、身障者などの優先座席に若者が平気ですわってケータイなどをいじっている。社会的ルールがまったく無視されている。これは日本文化の本質にかかわる問題で
す。

 ・・・はっきりいうと、日本仏教は鎌倉時代になってから
「他人を救済する」という観念がなくなってしまったんです。なぜなくなったか、というと、まず奈良時代に『涅槃経』の悉有皆仏性」(=しつうかいぶつしよう)すなわち出家した坊さんだけでなく「誰でも仏になれる」という大乗の思想が現われ、次いで平安時代に「叩身成仏」すなわち現世で「生きたまま仏になれる」という革命的思想が登場しましたが、これらは経典を読んでもよくわからない。

「身口意」(しんくい)という「手に印を結び、ロに真言を唱え、心が三昧に住する」という仏像のような姿になってみても多くの人には実感できない。鎌倉時代に法然が現われ、中国の浄土教に倣って「南無阿弥陀仏」と徹底して唱え、三昧の境地にまで入ったら「印身成仏」を体感したのではないか、また日蓮は「南無妙法蓮華縫」というお題目をl三昧の状態になるまで唱えきって「即身成仏」を体感した、とわたしはおもうのです。もちろん法然も日蓮もあの世で救われることをかんがえていたのでしょうが、同時に「印身成仏」を実感することをも求めていたのではないでしょうか。しかし「即身成仏」は「自利行」つまり
「自分だけが救われる行」です。「利他行」すなわち「自分を犠牲にして他人につくす行」ではない。そこが他の国の多くの宗教とものすごく違うところです。

上田 つまり大乗性、みんなを救うということがないということ?
・・・そうです。まったく
「自利行」のことしかいわない。たとえば日本の仏教の社会奉仕はどうなっているか、というと「布施汲羅蜜」(=ふせはらみつ)といって、人々が坊さんに食物などを差しだします。そのとき布施をした側が「布施をさせていただいて有難う」と感謝するのです。
発想が一神教の救済観念とまったく逆になっている。
(神なき国ニッポン。P-146から)

コメント:どうも、衆生には分かりません。そうであれば仕方ありません。ああ、そうですかと納得しなければいけないのでしょう。
聞くところによると、禅宗、特に曹洞宗は世界的にもボランテイア活動は盛んであると・・・。感謝!