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ノモンハン 70年後の教訓 上 暴かれる日ソ衝突の秘密 満州侵略決意したスターリン 日本とソ連が満州国とモンゴルの国境線をめぐり激戦を繰り広げたノモンハン事件から今年で70年。謎に包まれていたこの事件は、ソ連の崩壊で全容解明に向けてようやく動き始めた。第二次大戦の序章となった事件から学び新戦略を立てていたら、敗戦という破局に至った日本の命運は大きく変わっていたかもしれない。多くの研究者がいまそんな思いを胸にしている。事件の教訓は現代に生かされているのか、検証した。(内藤泰朗) ▼遺骨残る激戦地 それはそれは衝撃的な光景でした。中国との国境地帯に広がるモンゴル東部のノモンハン(モンゴル語でチベット仏教の「法王」の意)の草原地帯。日ソ両軍の激戦地として知られる北端の「フイ高地」を今年5月に調査した。軍事史研究家、辻田文雄(62)=岐阜市=は語った。の国境をめぐる衝突から発展した大規模戦闘、関東軍は大本営の戦闘不拡大方針に反し攻勢をかけたが、ソ連軍の総攻撃の前に大敗を喫した。同年9月に停戦が成立。死傷者は日本側約2万人、ソ連側約2万6千人とされる。,日本で対ソ開戦論が後退、南進論が優勢となる契機になった。 戦争から70年がたち、何も残ってはいないだろうと思っていたが、砂の草原には戦死した日本将兵たちの風化した遺骨や赤さびた砲弾の破片、ビンの破片などが足の踏み場がないくらい散乱していたからだ。遺骨の数はあまりに多かった。日本へ持ち帰るにも制約があった。辻田氏ら調査団一行は結局、写真撮影した遺骨だけをその場に埋葬し慰霊した。フイ高地では日本守備隊の8割以上が戦死しながら一人とし」て捕虜とはならなかった。飢えと渇きに苦しみながら、塹壕で息を潜めていた生存兵が夜の闇に紛れて脱出したが、「命令違反」の責任を問われ支隊長が自決した悲劇の戦場である。 ソ連側も舌を巻く屈強さで陣地を死守したその日本の主力、第23師団は鹿児島や都城など九州男児たちに苦しめられ日本側以上の被害を出していたことが最近の研究で明らかになった。だが、辻田氏によると、フイ高地は「高地」とは名ばかりの遮蔽物がない平原だった。敵陣地からは高台にあるものの、塹壕しかない陣地で"死守"を命じた司令部は「あまりに無謀で無策だった」。 ▼廃虚の巨大基地 調査ではさらに、ソ連の独裁者スターリンがモンゴルの実に東半分をソ連軍の要塞にしていた実態も明らかになった。ソ連軍の出撃拠点だったタムスク基地(モンゴル名タムサク・ボラグ、「美味なる泉」の意)は、ノモンハンの西約110キロにあった。ソ連軍はすでに撤収し廃虚と化し、山手線の圏内をひとまわり大きくした広さの基地には無数の砲台やトーチカ、塹壕、司令部とみられる建物が放置されていた。だが、基地は事件前から急速に拡張された。両軍が衝突する2ヵ月前の3月には大量の戦車や大砲、弾薬が運び込まれ、戦闘準備が整えられた。基地周辺には4つの飛行場をその後整備し鉄道まで敷設。タムスクの後方に、マタト、サンベースなどの巨大補給基地も建設したのだ。 「スターリンが、同盟国とはいえ異国のモンゴル東部の辺境の砂漠に巨費を投じ、巨大な軍事要塞を建設したのは、来る対日決戦と満州侵略を決意し周到に準備していた動かぬ証拠だ」。辻田氏の結論である。「日本がアジア侵略の目的で始めた戦争」ー。ソ連が東京裁判でこう断罪したノモンハン事件は、ソ連の対日侵略の前哨戦だった。70年の歳月を経て「ノモンハンの秘密」が少しずつ暴かれ始めた。3面に続く 平成21年(2009年)10月9日 金曜日 1面から続く 情報より作戦重視の日本 ▼浮かぴ上がる弱点 ノモンハン事件は、日本の弱点もあぶり出した。「最後の方は、ソ連軍の圧倒的な物量の前に手も足も出なかった。正直、戦争が終わり生き残ったのだと思い、ホッとした」ノモンハン空戦に参戦した元操縦士の瀧山和(やまと)氏(94)"東京都大田区=は、産経新聞とのインタビューで、こう胸の内を明かした。瀧山氏によると、日本側 が優勢だった戦況が一変したのは1939年8月ごろ。日本軍は弾を節約し命中率を高めるために50㍍まで敵機に接近して撃っていたが、ソ連軍機はその何倍も遠くから撃ち始めた。弾が尽きても、すぐあとに別の敵機が控えていた。ベテラン操縦士は敵機に近づき次々撃墜され、遠くにいた経験が浅い若者だけが生き残った。 物量の差が最終的には雌雄を決したのだ。日本軍は効率を重視したが、物量を軽視したために多くの有能な人材を失い敗れた。その"悪癖"は、反省されることもなく、その後の戦争に引き継がれてしまった。満州では、石油が見つからなかった。だが、航空隊は当時、満州領だった現中国の大慶油田の上空を度々飛行し眼下の湖沼にギラギラと黒く輝く油膜のようなものを認め、満州鉄道に報告していた。満鉄は「石油が出る地層にあらず」と回答をよこし、一度も現地調査を行わなかった。 中国は約20年後、その場所に大油田を発見し大慶と命名。ピーク時には、年間5千万トンの産油量を誇った。これは第二次大戦開戦 時の日本の年間消費量の10倍にあたる。「調査さえしていれば、日本は事件後、資源を求めて南方に進出し米国と衝突しなくてもすん だのかもしれない」と瀧山氏はつぶやいた。 日本とソ連が激戦を繰り広げたモンゴル東部ノモンハン付近の草原。70年がたつのに、いまだに日本将兵の遺骨 が放置されたままになっている(辻田文雄氏提供) ▼誤った情勢判断 ソ連・欧州では事件の前後、虚々実々の外交が繰り広げられていた。39年8月23日、敵同士だと思われていたナチス・ドイツとソ連が突如、不可侵条約を締結した後、ドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦の火ぶたが切って落とされた。日本はその7ヵ月前から、ソ連を封じ込めるための同盟の締結をドイツ、イタリアと交渉していた。それだけに衝撃は大きく、時の平沼麒一郎(きいちろう)首相は「欧州情勢は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職した。 外交史に詳しい国際日本文化研究センターの戸部良一教授(61)によると、日本は実は、独ソが手を結ぶという情報をノモンハン事件のの前の同年4月には入手していた。独ソ提携で、ソ連が欧州の兵力をノモンハンに割くことが可能になると予測もできた。だが、ブレーキはかからなかった。当時の白鳥敏夫駐イタリア大使は、重大情報を得ていながら、対独開戦の時期を遅らせ対日戦に向けて兵力を割きたいスターリンと、ポーランド侵攻を前にその背後の敵、ソ連の動きを止めたいヒトラーの意図を読み切れなかった。 軍には、ソ連軍増強の情報が入っていた。だが、軍は情報より作戦を重視し、「結果さえ良ければ何をやってもいい」という雰囲気があったという。戸部教授は「日本には当時、まだ力があり、戦わずに別の選択肢を選んでいたら、別の歴史がつくられてられていたはずだ。なぜ、他の道を選ばなかったのかを知ることが、われわれ歴史家の役目であり、現代への教訓につながると強調した。 ▼生かされぬ反省 元日本共産党員(除籍)で、軍事評論家の古是三春ふるぜみつはる)氏(49)はこの9月に出版した著書「ノモンハンの真実日ソ戦車戦の実相」(産経新聞出版)で、ソ連軍がノモンハンでの苦戦の反省からすぐに新型戦車の開発に着手。その後、ドイツ軍を苦しめた当時世界最強の戦車T34を完成させたエピソードなどを紹介している。古是氏は「日本は、自らの弱点を知ることに一生懸命にならなかった。指導部は責任回避や失敗のなすりつけ合いに必死だった。日本は、自らの力の限界を見極めて現実的な戦いを挑むべきだったが、それができなかったことが第二次大戦の悲劇を招いた。そこには指導部のおごりや高ぶりもあった。ノモンハンは現代に通じる重要な分岐点といえる」と指摘する。ノモンハン研究のさらなる進展が待たれている。(内藤泰朗) 大激戦地へいた日本軍の銃弾フイ高地に散乱していた日本軍の銃弾(辻田文雄氏提供) 土曜日 平成21年(2009年)10月10日 70年後の教訓 中 大粛清のナゾ 果たせぬ"統一モンゴル"の夢 地図を広げると、日本とソ連が70年前に満州国とモンゴルの国境線をめぐり激戦を繰り広げたノモンハンの戦場の小ささがよく分かる。東西わずか20キロ、南北に60~70キロ。ここで双方合わせて4万人以上もの血が流された。だが、舞台となったモンゴルでは、戦死者よりも同盟国、ソ連の独裁者スターリンによる粛清で膨大な数の犠牲者を出したことが、ソ連崩壊後の研究で明らかになった。 モンゴルの道しるべであるオボ(塚)を回り、旅の安全を祈願するモンゴルの兵士(辻田文雄氏提供) ▼「日本のスパイ」 モンゴル研究の第一人者である田中克彦・一橋大学名誉教授(75)が今年6月に出版した「ノモンハン戦争モンゴルと満洲国」(岩波新書)によると、スターリンによる大粛清は、1937年10月に始まった。「最初の14人」と呼ばれる「日本のスパイ」が逮捕・銃殺されてから、ノモンハン事件勃発までの約1年半の間に2万474人もの市民らが処刑された。その中には、首脳や軍司令官らも含まれている。毎夜、400人もの市民がトラックで運ばれ、処刑の銃声が夜空を震わせたという。ノモンハン事件で戦死したモンゴル将兵の数は237 人。実に、その86倍もの国民が大粛清の犠牲となった計算だ。当時の人口が約70万とされるモンゴルにとって、大変な数である。スターリンは、満州国とモンゴルの国境問題を話し合いで解決しようとしたすべての者を粛清した。 日本との対話の道を閉ざすことで、モンゴルをソ連の衛星国とし、日本との対決に備えていた。13世紀にモンゴル帝国を築いたチンギスハンの末裔も、隣接する北の巨大な軍事超大国に従う以外に生きる道はなかったのだ。 モンゴルモンゴル高原を中心に遊牧民族が居住。主な宗教はチベット仏教。13世紀に中央アジアに広がる帝国を建設した が、17世紀に清朝の支配に入り外モンゴルと呼ばれた。1924年にソ連の支援で「モンゴル人民共和国」が成立。92年に 現在のモンゴル国となった。中国の内モンゴル自治区、ロシアのブリヤート共和国にもモンゴル人が住む。 ▼歴史見直しの動き しかし、70年がたち、スターリンがつくり出した恐怖のくぴきが消滅したモンゴルでは、ソ連支配に抵抗し粛清された政治家や将軍たちの記録を探し、自国の歴史を調べ直す動きが活発になっているという。今年7月初めには、モンゴルの首都ウランバートルでノモンハン事件70周年の国際会議が開かれ、日本やモンゴル、ロシア(旧ソ連)の紛争当事国以外にも米国や英国、中国、韓国から学者が出席し、盛んな議論が行われた。出席した田中教授によると、モンゴルの学者の多くは依然、ノモンハン事件が日本のアジア侵略の野望によって引き起こされたとするソ連史観を引きずる。だが、なぜ、同盟国のソ連が戦争を前にモンゴルの最高指導者らをこれほどまでに粛清したのか。その答えについては語られなかった。 それでも田中教授は「何か新しいことを知りたいという参加者たちの意欲を強く感じた」という。会議で田中教授は「モンゴルは、現中国の内モンゴルと現ロシアのブリヤートの3カ国のモンゴルから成り、同じ文化をもつこれら3者が共通の文化国家の形成に向け努力すべきだ」と、壮大な夢を語った。だが、これは、モンゴル民族を分断した中露両国には、分離主義をあおる"危険思想"と映る。 ▼草原の新争奪戦 ロシアのメドベージェフ大統領が今年8月末、モンゴルを訪問し、日本への「勝利の本質を変える捏造は容認できない」と述べたのも、こうした歴史見直しの動きを警戒し、強く牽制したものだ。もちろんそれだけが訪問の目的ではない。ノモンハンにも近いモンゴル南部の砂漠では、ウラン鉱のほか、世界最大級の金や銅の鉱山、石炭、石油が見つかり、隣の中国やロシア、インドなど大国による新たな資源争奪戦が繰り広げられている。モンゴルは、豊富な地下資源によって経済を発展させるチャンスをつかんだ。70年前は、日本とソ連しか関心を抱かなかった大草原はいま、世界の耳目を集めている。 統一モンゴル国家の形成は"夢"であっても、かつては不可能だった文化や歴史の共同研究や3つのモンゴルの交流は可能になった。田中教授は「日本はモンゴル研究を主導することで歴史の真実を追究する尊い事業を遂行できる。それは中露を牽制する政治力ードにもなる。ノモンハンで血を流した多くの日本人将兵の死を無駄にしないためにも、日本はモンゴルにもっと積極的に関与すべきだ」と話す。(内藤泰朗) 日曜日 平成21年(2009年)10月11日 ノモンハン 70年後の教訓 下 「ソ連の帝国主義」いまも踏襲 スターリンの呪縛 ロシアでは、日本とソ連が満外国とモンゴルの国境線をめぐり激戦となったノモンハン事件を「ハルハ河の戦い」、または「ハルハ河の勝利」と呼ぶ。その70周年を記念し、モスクワの国立軍事公文書館で今年5月、「ハルハ河の勝利」と題した円卓会議が開かれた。老境にさしかかった専門家から歴史を専攻する学生まで数十人が参加し、世代を超えた関心の高さを示した。 ▼ソ連愛国教育の復活 会議は、プーチン前政権期の2001年に始まった「国民の愛国的教育計画」という国家プロジェクトの一環として実施された。出席した旧ソ連軍参謀本部中央研究所の元研究員、アレクサンドル・ザベーリン氏(55)によると、会議は赤軍やソ連を賛美する雰囲気に終始した。「ソ連は軍事国家・日本のアジア侵略を食い止めた」。"正義"の戦いにソ連は勝利したと描き出すことで、若者たちに、今はなきソ連への誇りと、ロシアヘの愛国心を植え付けることが狙いだった。 「日本人捕虜のうち10人前後が尋問のため、空路モスクワに搬送された」という新資料が最近、見つかったが、尋間内容や彼らの運命は不明のままだ。70年も前の事件なのに、「機密が解除された事件関係の公文書はごくわずかで、諜報活動の実態も不明だ。当時の国内報道も限られていた」という。ロシアではソ連崩壊後、この「知られざる戦争」の真実を解明しようという動きが出た。だが、プーチン前政権がソ連の愛国教育を復活させ、独裁的指導者スターリンを評価し始めたことで、流れが変わった。 ▼世紀の詰め将棋 「この戦いは決して負けるわけにいかない」。そう考え「スターリンは、国の東と西で日本とナチス・ドイツと同時に、二正面で戦うのは是が非でも避ける戦略をとった。「スターリンは、極めてうまく事を運んだ。ノモンハンの前年に起きた張鼓峰(ちょうこほう)事件(満州・ソ連・朝鮮国境付近で起きた日ソ両軍の衝突事件)から日本の力を試すための挑発行動を始めた彼にとって、ノモンハンは碁の布石の ような、壮大な構想の一部だった」という。 スターリンは、ノモンハンで戦闘を行いながら英国やフランスとの連携も模索した。同時に、ヒトラーのドイツにも秋波を送り、欧州方面に展開する兵力の東方展開を開始した。ソ連がノモンハンの日本軍に大攻勢を開始したのが1939年8月20日。その3日後にはドイツと不可侵条約を結び、その後、ドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦が始まった。 ソ連は、大打撃を受けた日本側との停戦が9月15日に成立するや否や、2日後の9月17日には今度は、ポーランドに侵攻した。電光石火の作戦の舞台裏で、スターリンは精鋭軍を将棋の駒のように東へ西へと動かしていたのだ。ノモンハンで甚大な損害を受けた日本は南下政策に集中し、アジアでの戦闘を拡大して米国と対立、第二次大戦での敗戦へと突き進んでいく。ナチス・ドイツとの戦いに勝利したスターリンは、日本の敗戦が決まると、今度は有効だった日ソ中立条約を破棄して対日参戦し日本固有の領土までも奪い取った。 ▼暗部は見ぬふり クレムリンは今年5月、メドベージェフ大統領直属の「反歴史捏造(ねつぞう)委員会」を設置した。それは、ノモンハンから第二次大戦へと連なる「戦勝国ソ連の偉業」を見直す歴史観は許さないーという強い意志を国内外に示す意図があった。2700万人もの犠牲の上に立つ大戦での勝利や、東欧・バルト諸国で半世紀前後も続いた戦後の抑圧、国内外で行われた大粛清といったソ連の暗部のいっさいに目をつぶらせる狙いもちらつく。ロシアは昨年8月、南の隣国、グルジアに武力侵攻して南オセチア自治州など2地域の独立を承認した。2地域に住むロシア国籍を有する住民保護が主たる理由だった。ソ連崩壊後のロシアが隣国の領土を軍事力で奪い取ったのはこれが初めてのことだ。 ザベーリン氏は、ノモンハン事件からグルジア紛争に至る歴史を振り返り、「帝国主義はソ連時代から現代ロシアまで生き続けている。ロシアはソ連が敷いたレールの上を進んでいる」と指摘した。ソ連に「勝利」をもたらし「偉大なる指導者」となったスターリンの呪縛はまだ解けていない。(モスクワ佐藤貴生) モスクワのロシア国立公文書館で開催されているノモンハン事件に関する展示会(佐藤貴生撮影) ![]() |