山口常光先生を偲ぶ 松澤純子
去年の冷夏と打って変って今年の夏の暑さの厳しいこと身にこたえます。この厳しい暑さと共にまた今年も終戦記念日を迎えようとしています。 戦後五十年も経過すれば、戦争を経験した人々も減って参ります。そして、戦争の愚かさと平和の尊さを後世に言い伝える事が特に大事と思われます。
毎年終戦記念日を迎える毎に、私は山口常光先生の事を思い出されます。山口先生と云っても壱岐出身者の中でご存知の方は若い人には少ないのではないかと思われます。(私個人は先生にご恩を多大に受け、生涯の恩人として忘れることの出来ない方であり、以前この会報の中でも記載していただきました。) というのは、先生が日本の音楽文化に貢献された事を壱岐の誇りとして後世の方々にお伝えしておかなければいけないと思うのであります。その事と終戦記念日とどういう結びつきがあると思われるでしょう。私も終戦の年はまだ五歳という子供であり、壱岐においては戦争の本当の悲惨さは味わってはおりません。思い出すことと云えば母が「空襲警報発令!」と
大声で近所へ知らせる叫び声と祖母に手をひかれ湿気の多い防空壕に入り、真っ暗やみの中で息をひそめ蚊取り線香の小さな光を見つめていた記憶がかすかに思い出される程度です。
山口先生は終戦迄陸軍軍楽隊長として活躍されました。敗戦の色濃くなった頃、学徒動員で将来ある若い学生が続々と戦地に送り出され、お国のためと若い命を落していきました。その事を憂えられた先生は、東京音楽学校(現東京芸大)の学生をごっそり軍楽隊へ入れられました。それは、才能ある若者がむざむざと戦地で命を失なぅ事がないようにとの配慮であります。
先生の勇気ある英断で命拾いされた方々は数多く、戦後日本の音楽界を盛り上げてこられた、黛敏郎氏、団伊久麿氏、故芥川也寸志氏等々がいらっしやいます。先年の英断がなければ戦後の日本の音楽界の紫栄はなかったと云っても過言ではないと思います。
私が山口先生のお世話で師事しました荒井基裕先生もその中のお一人で、荒井先生は今も現役でカンツォーネを歌い又若い歌手を育てられ、日本にカンツォーネを紹介された第一人者でもあります。 荒井先生は私に常々「山口先生は僕の命の恩人だから」と云われ、山口先生の口ききでお弟子の一人にして下さったので特に可愛がって下さり、レッスン代は払えなかったのか、払った記憶がないのですが、それは厳しい熱心な指導を受けました。
話しは少し変わりますが、山口常光先生は、日本ではじめて吹奏楽の留学生としてフランスの国立ギャルド管弦楽団で勉強して来られた方でもあります。去年十一月所沢で完成しました本格的音楽ホール「ミューズ」大ホールで、フランスからギャルド国立管弦楽団がこけら落しの催し物の一つとして来日し素晴しい演奏をされました。 そこで学ばれた先生は日本の吹奏楽の草分けとして活躍され、また後進の指導をなさいました。
その結果、日本の吹奏楽のレベルは年々高くなり、小・中・高の学生のコンクールにおいて技術的な伸びは素晴らしく外国でもその演奏は高く評価されております。 現在このような吹奏楽において、その基礎を築かれた方が山口先生であることは忘れてならない事と思います。
先日も読売新開の記事に、警視庁の音楽隊の倉庫から明治、大正、昭和にかけての吹奏楽の貴重な楽譜が沢山発見され、これが山口先生が長い間かけて収集され所蔵されていたものであるという記事が、先生の写真入りで紹介されていました。この事でも先生の功績がいかに多大であったことか理解出来ましょう。
今日私も微力ながら音楽にかかわる生活をし、これから生涯もこの道一筋学んでいける幸せのそのきっかけを与えて下さったのが先生であり、その出合いがなかったら今日の私もなかったでしょうと、先生のご恩をまたあらためて感じております。
湯の本湾を見渡す場所に山口先生の指揮棒を持たれた勇姿が胸像となって建立され壱岐の名所となっているそうです。先生は天国で今頃どんな楽隊の指揮をなさっておいででしょうか?(東京雪州会評議員・あすなろ声楽研究会代表者)
注 松沢さんは武蔵野音楽大学を首席で卒業、卒業式では父母代理として出席下さった山口常光先生の面前で、卒業生代表として卒業証書を授与されました。文中にあるフランスからきたギャルド国立管弦楽団(山口先生が留学された楽団)が松沢さんの目の前で演奏したことは、まことにご縁を感じます。 (後藤記)
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