解説 八巻明彦 秘蔵盤。古い土蔵の片隅に、建て替えようと思った旧家の物置の中から、古道具屋の奥から、埃を払って出て来たSPレコード・・・。いささか古風な表現ながら、戦後も50年を経過すると、そういった昔の音盤の発掘の中から、古くて新しい音源が時に姿を現わすことがある。 10年前にLPで、今年CDで私の監修により復刻発売した戦前派レコード4社による「軍歌戦時歌謡大全集」のある部分は、そうした秘蔵盤が戦災に遭ったレコード会社の欠落原盤を埋めてくれた。それでも、集められた秘蔵盤軍楽隊演奏の一部は、大全集に収め切れずにそのまま眠ってきた。 いま、ここにそれらの音源を“日本の吹奏楽”戦前盤として、レーベルを越えて3枚のCDにまとめ上げることが実現した。実は、特別な大全集企画を除くと、こうした手頃な形で名レーベル相乗りによるCD企画が成立するのは、初めてのことなのである。 陸軍軍楽隊を、海軍軍楽隊を、昭和という長い時間の中でさまざまな形で録音された形で復刻蘇生させるのは、日本吹奏楽の−つの大きな足跡を記録に留めることであった。ささやかな仕事ではあるが、持つ意義は大きい。敢えて一言能書を掲げる所以である。 × × × 今更いうまでもないことではあるが、日本における西洋音楽の導入は、明治維新によって近代化の目標に揚げた“文明開化”と“富国強兵”という二つの大きなスローガンの許に始まった。 近代的軍隊の調練に必要な鼓笛隊の創設に瑞を発した軍楽の充実の必要性の認識が、明治4年兵学寮に軍楽隊の設置・養成を実現させたのがその手初めであった。 初め千葉県国府台(こうのだい)にあった下土養成の教導団に置かれた陸軍の軍楽隊養成コースは、やがて戸山学校軍楽隊として80年に及ぶ陸軍軍楽隊の基幹となったが、明治16年に、日本が開化したことを外国人に披露すべく東京・日比谷に鹿鳴館が建てられ、舞踏会や音楽会が頻繁に開かれるようになつた頃、西洋音楽の演奏を担当したのは軍楽隊であった。 明治18年に、指導に招かれた仏人軍楽師シヤルル・ルルー作曲の「抜刀隊」が陸軍軍楽隊員によって初演されたが、その後この曲は「扶桑歌」の名の下に行進曲にまとめられ、以後陸軍の制式分列行進曲として長く陸軍軍楽の象徴となった。 明治20年代中期になると、軍楽隊員の技倆も充実し、「元寇」や「月下の陣」という名曲を作曲した永井建子のような作曲家も育ち、やがて迎えた日清戦争では中国大陸の野戦軍司令部付き軍楽隊として初めて従軍、将兵の士気の鼓舞に務める−方、永井は「雪の進軍」という、戦地にあっての実体験を自ら作詞作曲して、軍人のための、軍人による、軍人の軍歌−という軍歌本来の創作を実現している。 以後、日露戦争を経て軍国日本の隆昌と共に陸軍軍楽隊は更に充実、日露戦勝直後の明治38年8月には、東京日比谷公園野外音楽堂でコンサートを開き、泰西名曲や日本人の作品を取り上げ、洋楽の市民への普及に貫献することとなった。 陸海軍軍楽隊の毎週交替の出張演奏の伝統は、戦後の今日にも及んで、陸軍軍楽隊の衣鉢を継承した形の警視庁音楽隊は火曜日、海軍のそれを伝える東京消防庁音楽隊は金曜日に、それぞれ正午から現在も演奏を続けている。 20世紀前半は“戦争の世紀”と呼ばれ、日本では特に昭和時代前半の20年間は、まさしく“戦争の時代”であった。この時代をリードしたのは陸軍であったから陸軍軍楽隊は、折柄勃興したレコード産業と提携して、演奏技術の成果を録音し、更には作曲活動にと大活躍を示した。 これを支えたのは、伝統によりフランスに留学した大沼哲や山口常光といった後に戸山学校軍楽隊の隊長として演奏技術に磨きをかけた楽長達であった。 「立派な兵隊」や「皇軍の門出」といった一連の作曲活動でも俊英ぶりを発揮した大沼楽長は、とりわけ最盛期の戸山学校軍楽隊を率いて精力的に録音活動を行った。 ここに収銀された半数に近い収録曲は、昭和10年代後半、支那事変以降の彼の力倆を示す好資料といえる。大沼に先立って昭和の戸校軍楽隊を堅めた名楽長・辻順治のタクトぶりが記録されているのも貴重だし、 最後の山口常光隊長の振った4曲も、聴きごたえがある。改めて、レーベルを越えたラインナップというものの貴重さを痛感する次第だ。 |