情報源:日本の息吹3月号(日本会議・賛助会員=管理人)

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       日本の息吹    後に続く若き友らへ
日本の独立を守った先人の足跡
学生諸君が、休日にもかかわらず、全国から集まって研修をされることに敬意を表します。最初に、我が国の先人の足跡についてお話しいたします。日本は聖徳太子の時代(六世紀末から七世紀)、隋に遣隋使を派遣し、皇帝?帝に対して
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との国書を差し出します。毅然として対等の国交をしていたのです。

また
「四百余州を挙る十万余騎の敵国難ここに見る弘安四年夏の頃」という歌がありますね、「元冠」です。十三世紀当時、アジア大陸からヨーロッパまで、ほとんどの国がモンゴルに席巻されていた時代に、日本だけが敢然と戦って元軍(モンゴル軍)を撃ち払いました。

もちろん
「元軍の船が夜停泊していた玄界灘に台風が来た、嵐が吹いた」といわれていますから、神風も吹いたのでしょう。しかし敢然と朝野を挙げて戦ったのです。例えば、出羽三山に、時の上皇は元軍撃滅の祈りを捧げました。その記念の額は今でも残っています。

朝野を挙げて死に物狂いで戦ったから、日本だけは他国の侵略を免れたのです。次に十七世紀の戦国時代の話です。当時はポルトガルやスペインを先頭に、ヨーロッパ諸国がアジアに攻め込んできた時代です。マカオとか慶門、香港、シンガポール、マレーシア、インドネシア等散々やられてしまいました。

そういう中、日本にも宣教師がやってきました。その宣教師が本国に書き送った文章の中に、次のようにありました。

「日本は平和のために、絶えず戦争の練習をしていて、好戦的である。この国には攻め込まないほうがいい」と。「好戦的」だという言い方は正確ではなかったと思いますが、しかし外の国が武力を疎んじていた時に日本は、文武両道だったのです。

武士が世の中の中核にいたためといえますが、それが日本の独立を支え続けたのです。さらに時代は進んで十九世紀の幕末になります。生麦事件の後、イギリス軍が鹿児島を攻撃しましたが、薩摩藩が降伏しないで戦ったのです。

結果としては負けましたが、イギリス軍も薩摩を占領できず撤退しました。その後下関で馬関戦争が起こり、長州藩は四カ国と戦い、戦闘には負けたのですが、戦う姿勢を示したため、幕末も日本の独立が守られたのです。

そしてついに明治維新に入っていきます。日本の武士たちは、大政奉還、武士階級の消滅、富国強兵の策をとり、近代国家建設を成し遂げました。これが日本の近代化の重大な要素です。

その時にひとつ知っておいていただきたいことがあります。頼山陽や坂本龍馬、高杉晋作、真木和泉守など、志士と呼ばれる人たちは、西方の人が多くいました。特に九州の人ですね。上京する時には、みんな兵庫の
湊川神社にお参りしていました。

そこに
「鳴呼忠臣楠子之墓」というのがあります。楠木正成を祀った墓です。九州から出てきた志士たちは湊川神社に詣でているのです。では、なぜ志士たちは湊川神社を詣でたのでしょうか。

南北朝時代のことを扱った国民文学に『太平記』があります。この中に楠木正成が出てくるのですが、
「智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守る者は、古より今に至るまで、この正成程の者はなかりつるに…」とあります。最高の褒め言葉ですね。

こうして日本の国民に、楠木正成の忠勇が伝わり続けました。この『太平記』は南朝寄りの作品
ですが、反対の北朝側の足利尊氏寄りの作品に
『梅松論』があります。

楠木正成にとっては、いわゆる敵方ですね。その『梅松論』で、楠木正成のことを
「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と書いています。

敵方であっても、楠木正成はこのように評価されています。幕末の志士たちはこうした文学を読
み、みんな湊川神社を訪れたのです。楠木正成の言葉に
「七生報国」というのがあります。七度生まれて国に報いる、ということです。

正成が湊川で戦死したのは1336六年ですが、五百年以上を経て、明治の志士たちが楠木正成の後を継いでいこうと起ちあがったのです。

こうした忠君愛国、国や公のために尽くすという心が、日本を形成する中心にあるということが非常に大きなことなのです。

★三つの世界史的偉業

我が国の先輩たちは、近現代において三つの世界的偉業を成し遂げています。
第一は日清・日露戦争です。日清戦争は大したことがないように思われていますが、それは今日から見た考え方です。当時清国は、「眠れる獅子」と言われ、欧米も恐れたほどです。もちろん日本人も恐れていました。ところが日清戦争の十五年前ほどに、福島安正という情報将校が、朝鮮や中国本土に渡って、事情を調べました。そして「清は眠れる獅子ではない、眠れる豚だ」という報告を上げているのです。

それを読んだ伊藤博文などは、
「眠れる獅子かと心配していたが、それならば戦うか」ということで日清戦争に踏み切ったのです。

日清戦争の数年前に、中国はドイツから
「鎮遠」「定遠」という軍艦を買いました。そして長崎に来て、デモンストレーションを行い、暴れまわったという有名な事件があります。中国に武器を持たせるとろくなことがありません。そのことは歴史的に証明されているのです。

だから中国の隣に位置する日本は、抑止力を持たなければいけないというのが、
歴史的教えなのです。

ではなぜ、日清戦争をせざるを得なかったのか。それは清の背後にロシアの脅威があったからです。もし日本が日清・日露戦争を戦わなければ、
韓国は今頃、みんなロシア語を話していたことでしょう。

日本は日清戦争に勝った上に、さらに日露戦争にまで勝った。まさに大国との戦いに勝ったのです。

この時の日本将兵の規律は世界に知れ渡りました。特に北清事件の際、北京に駐留している外国軍の中で、
日本軍は際立って規律厳正だったということが、北京にいた英国の公使のレポートに記されています。英国公使は、本国に対して「手を握るのは日本だ」というレポートを送ったのですが、それが後の日英同盟の基礎になったと言われています。

また日露戦争の勝利で、世界に衝撃が走りました。インドやトルコ、フィンランドなど
世界の諸民族が覚醒したのです。一九九七年にOECDから頼まれて、私はフィンランドの国際会議に出席しました。用事が終わった後、フィンランドのリッポネン首相を訪ねました。

私は首相に
「日本人はフィンランド人に対して親近感を持っています」と言いました。と言うのは、フィンランドはフン族といって、アジアの血が入っている民族なのです。当然、フィンランド側もそのことを知っていますから、説明しなくてもわかりました。

あとは会社の話やフィンランドにおける活動の話をして、「これからもよろしく」と伝えました。それに対してフィンランドの首相は、
「われわれフィンランド人は対馬以来、日本に対して特別の感情を持っている」と答えました。

「対馬」とは日露戦争の日本海海戦のことです。日本が日本海海戦を果敢に戦い、ロシアに勝利した。それによってフィンランドも発奮し、ついにロシアからの独立を達成したというのがリッポネン首相の言葉でした。

アメリカのフロリダ大学のウィリアム・ウッドラフという歴史学の教授が、一九九〇年に『現代を読む世界近代史』(阪急コミュニケーションズ)という本で日露戦争を論評しています。そこを読みますと、
「近代史において初めてアジア人がヨーロッパの強国を、陸と海で同時に打ち破った。

ヨーロッパ全能の神話が打ち破られ、インド、ペルシャ、トルコのアジア民族主義にとてつもな
い刺激を与えた。歴史の第一線へのアジアの回帰が始まった」
と書いてあります。

我々の先輩たちが日露戦争を戦ったことでアジアの人たちを覚醒させ、彼らを奮い立たせたことが、このような形でも評価されています。

★人類の基本道義の確立

先輩方が成し遂げた
世界的偉業の二つ目は、大東亜戦争です。これは敗れました。敗れましたが、その結果どうなったでしょうか。世界では、人種差別が撤廃されるようになりました。もちろん名残はありますが、建前としては人種差別が認められなくなりました。

さらに植民地もほとんど無くなりました。つまり我々の先輩たちが大東亜戦争を戦ったことで、
人類の基本道義が確立されたのです。これを偉業と呼ばずにおれるでしょうか。

イギリスの
アーノルト・トインビーという世界的な歴史家は、『オブザーバー』という雑誌の一九五六年十月二十八日号に次のように書いています。「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。

その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある」。


トインビーはここに
「短命な理想であった大東亜共栄圏」だと書いています。ところがその後、日本を先頭にアジアは経済発展したのです。

三つ目の偉業は、経済発展です。一九九〇年三月、沖縄にいたアメリ力海兵隊司令官スタック・ポールは、アメリカの『ワシントン・ポスト紙』のインタビューに答え、「日本は銃によらない大東亜共栄圏を作った」と答えました。

彼は「在日米軍は日本の軍事力増強を抑制するための
『ビンのふた』だ」とずけずけという男ですが、私も率直にそう思います。そのスタック・ポール中将が言うように、日本は、経済発展でも多大な業績を上げています。戦後、日本が急成長し、アジアの発展を触発してきたのです。

二〇〇五年の八月の『タイム誌』(アジア版)に掲載された特集「モダンアジアの誕生」の巻頭コラムに、シンガポールのリー・クアンユー公共政策大学院院長のキショール・マブバニが、次のように書いています。

「第二次大戦における日本の振る舞いはひどいものだ。しかし、もし日本が二十世紀前半に成功しなかったら、アジアの発展はずっと遅れていただろう。日本がアジアの勃興を促したのだ。日本の過酷な植民地支配を受けた韓国でさえ、日本というお手本がなかったらあれほど早く飛び立てなかっただろう。

アジアは日本に感謝状を贈らなければならない。残念なのは、アジアと西洋の間に引き裂かれた日本が、自らのアイデンティティに曖昧でいる間は、そうした感謝の言葉を贈るわけにはいかないということだ。

中国人でさえ日本に感謝すぺきだ。第二次大戦中の暴虐行為を再三否定する日本政府の態度は、中国との関係を複雑化させている。しかし、ケ小平が計画経済から自由主義経済へと移行する運命的な決断をしなければ、今の中国はなかった。

ケ小平は、台湾、香港、シンガポールで発展する華僑の姿を見て、思い切った決断をするに至ったのだが、この三匹の虎と、四匹目の虎である韓国は、日本に刺激を受けたのだ。日本がアジア太平洋に投げ込んだ石は波紋となり、やがて中国の利益にもなったのだ」。


多少歴史観の違いはありますが、アジアでも、大東亜戦争後、日本がアジアを覚醒し発展させた原動力となったという見方があるのです。

ケ小平は、一九七八年十月に日本に来ました。中国に戻った後の十二月、自由主義経済に移るという決断をしました。それから八年遅れてソ連は、ペレストロイカ政策に踏み切りました。ロシアも、中国が発展し始めたのを見て、「これは大変だ」ということで一九八六年に動き始め、一九九一年にソ連が崩壊します。

こうして
共産主義の計画経済は、完全に敗北しました。

日本が経済発展し、アジア諸国を触発して、自由経済がいいということを証明し、世界を動かしたのです。
日清・日露戦争、大東亜戦争いずれも日本がほとんど単独で行った大きな歴史的偉業であると言えます。

★日本の精神基盤


ではなぜこのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか。それは
日本が道義を通したためです。自分だけの利益を求めたのではなく、アジアの繁栄、彼らの独立を考え、さらには経済を発展させました。

日本の精神的根底にあるのは、日本書紀に出てくる
八絃一宇の精神です。「八紘を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと」という意味です。

聖徳太子の十七条憲法で言うところの
和を以て貴しとなすですね。平和を求める心が日本人の精神の根本にあるのです。

万葉集の中に、
「海行かば水漬くかばね山行かば草むすかばね大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ」という一節があります。忠君愛国と言いますか、己のために生きるのではなくて、全体のために生きるという生き方が最高の生き方だ、ということが万葉の昔から言われてきました。

このことを忘れるわけにはいきません。それが先ほど述べました楠木正成の南北朝時代に始まって、戦国時代、江戸時代を通して、文武両道を重んじる
武士道に繋がりました。

武士は単なる武力だけでなく、政治を預かっていました。これに対し韓国の李朝は文だけ尊重し、武を敬遠しました。その結果、亡国となったのです。

清国も同じです。ところが今の共産中国は、武だけを増強しています。李朝や清国の歴史を見ても、文武両
道は非常に大事なことなのです。

では今の日本はどうでしょうか。
武を嫌い、「平和、平和」と叫び、「憲法九条を残せばいい」と言っています。冗談じゃないと私は言いたい。

尖閣諸島を見て、
北朝鮮を見て、竹島を見て、北方領土を見れば、日本の安全保障をきちんと考え、防衛費を増やさないといけないことは一目瞭然です。

このあたりのことは、これから勉強してもらって、あなた方若い人たちに後を継いでもらいたいと思っています。

★アジアの独立を願って

一九一九年、日本は第一次大戦後の
パリ講和会議で、人種差別撤廃を主張しました。実はこの時、過半数の国は賛成したのです。しかし、「全会一致でないと認められない」と言って反対したのはアメリカのウィルソン大統領だったのです。

アメリカの理念とか道義とかを否定するつもりはありませんが、アメリカの主張する理想の裏には
必ず利益が絡んでいたり、自分の主張だけがあったりするものです。

しかし日本はそうではありませんでした。そしてもう一つ、日本はアジアの独立をも願っていました。岡倉天心や頭山満、宮崎滔天(とうてん)、河口慧海(えかい)などが中心人物です。

特に河口慧海は、日露戦争が終わった年にネパールに潜入したのですが、その時、ネパールの首相宛に英文の手紙を書いています。そこには
「我々日本人は、アジアの人々が共に手を携え協力し合って発展する姿を見たいのです」と書かれていました。まさに大東亜共栄圏ですね。

共栄の考えです。そして彼はネパールの発展のために、教育や政治に対する提案をしています。河口慧海はアジアの発展に尽くした代表人物の一人ですが、明治時代、大正時代にわたって、我々の先輩たちは、アジアに対して深い愛情をもってきました。

★自主独立の気概

さて、歴史上に見る、日本の素晴らしさをお話してきましたが、では今の日本はどうでしょうか。一番の問題は、
自主独立の気概がないことだと思っています。

私は偕公社という旧陸軍将校と自衛隊の元幹部自衛官の団体の会長をしています。この間まで理事長を六年間務めていました。私が接してきた自衛官たちはとても立派です。後事を託すに足る存在です。

一朝事ある時は命を懸けて戦うことを決意していることを感じます。しかし残念なのは、今の自衛隊が全く米軍依存であることです。長年米軍と共にやってきたので、依存体質があるのは仕方がないことではあるのですが…。

これからどんどん米国の力が下がってきます。一方、色んな新興国が(平成二十四年三月号)力をつけてくる時代になります。なかんずく中国ですね。そのような中にあって、日本はそのままでいいのでしょうか。そうはいきません。

中国、ロシア、韓国、北朝鮮の動きをみていると、十年後、二十年後は恐るべき状況がやってきます。

今から手を打たなければいけないのです。その基本は、自主独立の気概を持つことです。そのためにも、日本人から自主独立の気概を奪った憲法を直さないといけません。
憲法を改正するために、絶えず声を上げ続ける必要があると思います。

★道義国家

日本はこれからどのように進めばいいのでしょうか。
基本は道義国家となることだと思います。しかし、文武両道で、道義の裏には力がないといけません。つまり「抑止力」と「同盟」が必要なのです。アメリカだけでなく、東南アジアやインドといった国々としっかりと同盟を結ぶ。

これらの国々とはシーレーン同盟を結ぶのがいいと思います。これは同時に経済同盟でもありうるのです。シーレーン同盟強化のためにも、インドと東南アジアの国々には強くなってもらわないといけません。

経済力もつけてもらわないといけません。ですから、
経済協力と同時に、集団的自衛権を行使できるようにすることが必要です。やっぱり経済力というのは最後にものを言います。若い皆さんには、ぜひ日本の経済を成長させていただきたいと思っています。

★生きて祖国の再建に力を尽くせ

最後に、私が
人生の中で心に残っている訓示、教訓についてお話しします。私は、昭和二十年に陸軍航空士官学校を卒業し、その後四月に満洲に渡りました。まだ基本の操縦しか習っていませんでしたから、満洲に行って空中射撃や空中戦の練習をしました。

そうしているうちに八月六日に広島に原爆が落とされました。部隊長は我々を集め、引き締まった顔で
「広島に新型爆弾が落とされた。広島はひどいことになっている。お前たちも覚悟をしろ」と言いました。

異様な緊迫感を持った訓示を受けた記憶があります。そして九日。ソ連との国境近くの北満の練習場にソ連が爆弾を落としました。直ちに集められ、部隊長から
「只今から、奉天の南飛行場に移動し、飛行機を改造する。練習用戦闘機の機関銃では戦車攻撃ができない。爆弾を積んでソ連の戦車を攻撃しろ。そのために飛行機を持って、全員奉天に移動せよ」ということを言われました。

途中三回着陸して、奉天にたどり着きました。改造が終わり、部隊長のいる北飛行場にみんなで合流しようと準備していたときに、玉音放送がありました。玉音放送はよく聞き取れなかったのですが、その日の午後、部隊長から招集されて「日本は負けた」
と言われました。

そして、翌々日の朝早く
「飛行学生は内地の陸軍航空士官学校に戻れ。これは命令だ」と言われました。そのあと訓示に移りました。

「最後までお前たちには死ぬことを教えてきた。しかしこれからは死んではならん。地を這い、草を食み、犬になっても、乞食になっても生き抜け。生きて祖国の再建に力を尽くせ」。

これが部隊長の別れの訓示でした。そのあと部隊長が言うには、「お前たちには今まで衣食住はすべて、国家が支給していた。しかしこれからお前たちは全部自分で賄わなければならん。

ところが生活の術を全く心得ていない」。私なんか十三歳くらいのころから軍の学校に入っているので、生活の術は全く知りません。飯盒炊飯くらいはできますが、しかし米をどう育てるのかはわかりませ
ん。

部隊長は
「それを思うと哀れで涙がでる」と言ったのです。我々は貨物列車に詰め込まれて、朝鮮経由で日本に戻りました。間一髪でソ連が入ってくる前に朝鮮に入れました。

しかし
部隊長は翌日、ソ連に抑留されて、シベリアに三年半くらい抑留され、昭和二十四年に日
本に帰ってきました。

部隊長が
「地を這い、草を食み」と言ったのは何だったのか。「すごいこと言うな」とは思ったのですが、その意味はよくわかりませんでした。

しかし部隊長は、
「戦後、日本にアメリカ軍が入ってきて、こいつらは捕虜になるだろう。食べるものもなく、着るものもない。だけど必死に堪えて生き延びろ。生きて祖国の再建に力を尽くせ」と言いたかったのではないかと思った時、自分たちのことをそこまで考えてくれていたことに気付いたのです。

指揮官たるもの、
部隊長たるもの、一朝事あるときにまず部下のことを考えるのです。もちろん天下国家のことが先です。天下国家のために何が必要かと考えた時、部隊長は、部下を早く日本に帰して国の再建に役立てようと考えたのです。

幸いにして無事に帰った私は、広島で原爆の焼け野原の跡を見て、東京の焼け野原を見て、やむなく九州の親父の実家に戻りました。家は百姓だったのですが、土地がなかったので、私は東京大学第二工学部に入学しました。

部隊長の離別の訓示ーこれは終生忘れられないものです一
「祖国の再建はできたのか」と今なお問い続けています。確かに日本は経済発展できた。しかし中身はどうかと考えると、いつも鞭打たれる思いがするのです。

私の心に残るもう一つの言葉は、尾高朝雄(おだかともお)という法哲学の教授の言葉です。東京大学法学部には妙な教授がいっぱいいました。手のひらを返したように、「アメリカは偉い」と言い始めたのです。そのような中で、尾高教授からは
「真理の探求は生易しいことではない。簡単に結論を出すな。

諸君は色々な言説を聞くだろうが、ちょっと話を聞いただけで簡単にのめりこむな。広く学ぴ深く考えよ」
との教えをいただきました。

クラスメートは四十人ほどでしたが、十年ほど前にみんなで集まったときに、あの言葉を覚えているかと聞いたら、みんなしっかり覚えていました。さらに、軽挙妄動して赤旗を振った奴は一人もいなかったのです。

当時は、赤旗を振っての学生運動が盛んだったのですが、我々のクラスからは、そんな学生は一人も出なかったのです。

終生心に残る、訓示、教訓というのはその時々にあるものなのです。まだまだ、あなた方の人生はこれからです。日本のために大いに働いてもらいたいものです。残念ながら日本はまだまだ力足らずで、この体たらくです。我々も生ある限り努力は続けるつもりですが、ぜひ皆さんには後に続いてもらいたいと思います。

※本講演を主催した全日本学生文化会議については、34頁をご覧下さい。
http://bunkakaigi.org/default.aspx