戦争はいけません 日本の悲劇 すべてはマスコミの誤報道だった 嘘は罪です 慰安婦問


子供たちに伝えたい日本人の近現代史  71
戦勝国の報復だった裁判
「戦犯」認定は矛盾と疑問だらけ


終戦から一カ月後の昭和20(1945)年9月15日、対米英戦開戦時の東条英機内閣商工相で、後に首相となる岸信介は療養中の故郷、山口県の田布施から憲兵らに連行され東京へ向かった。横浜の刑務所や大森の元陸軍捕虜収容所などを経て12月8日、巣鴨拘置所に収容される。

9月11日、GHQ(連合国軍総司令部)により、岸ら39人に戦争犯罪人として逮捕令状が発令されたからだ。いわゆる「A級戦犯」の第1次逮捕で、東条をはじめ岸や東郷茂徳元外相ら開戦時の閣僚が中心だった。

このうち東条は11日の逮捕直前にピストルで自殺をはかるが一命をとりとめた。また東条内閣の厚相、小泉親彦や文相、橋田邦彦も自決した。この後、逮捕は翌21年4月まで数次にわたって続き、計100人余りの軍人、政治家らが容疑者となった。そして昭和天皇の誕生日の4月29日、28人がA級戦犯として起訴され、5月3日には東京市谷の旧陸軍省大講堂で極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が姶まった。

だが岸は起訴を免れる。同じ東条内閣の閣僚で文官の東郷や蔵相だった賀屋興宣「内閣書記官長、星野直樹らは起訴されただけに、覚悟していた岸自身も意外に思ったらしい。GHQが「主犯」と見なしていた東条とサイパン陥落後に衝突、和平を主張したことなどが考えられたが、正確な理由は明らかにならなかった。そうでなくとも「戦犯」認定には納得しにくいケースも多く、東京裁判の持つ大きな「矛盾点」といえた。

A級戦犯の「罪名」は「平和に対する罪」だったが、これは明らかに戦争後に勝者が敗者を裁くために作られた事後法だった。東条を中心とした日本に一部が東条を中心とした日本の一部が「共同謀議」のうえ、侵略を犯した罪とされたのだ。むろん戦前の国際法にはなかった。どうみても「無理筋」だった。

戦勝国が当初に描いた通りの「犯罪」に仕立てようとしたため論拠もなく恐意的に逮捕や起訴・不起訴を決め、あちこちに矛盾や混乱が生じたのである。

その背景には、戦犯の裁判そのものに、米国による日本に対する復習という面が色濃かったことがあった。

そのことを示しているのが東京裁判以前に行われた山下奉文陸軍大将、本闘雅晴同中将への「判決」だった。第二十五軍を率いてマレー半島からシンガポールを陥落させた山下は19年9月、フィリピンの第十四方面軍司令官としてマニラに赴任した。翌豹年2月のマニラ市街戦で、日本軍が行ったとされる市民虐殺の責任者として戦後、マニラ軍事法廷に立たされる。

裁判では山下の責任どころか、虐殺の事実も立証されなかった。だが連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの部下の軍人からなる裁判官は12月7日、一方的に死刑を宣告、21年2月執行された。シンガポール陥落のさい敵将に「イエスかノーか」と降伏を迫り連合国側の恨みを買ったうえ、フィリピンでマツカーサーと戦った山下への報復といえた。

本間の場合はもっとはっきりしている。17年4月のフィリピン・バターン半島攻略戦に勝利した日本の第十四軍は米・比軍の捕虜を徒歩で北方へ移動させた。しかしその数が7万6千と想定外の多さで食料を十分にまかなえず、マラリアにかかっている者の治療もできなかった。このため何千人もが死亡したとされる。

米軍はこれを「死の行進」と非難、当時の軍司令官だった本間を責任者としてやはり軍事法廷にかけた。そしてこちらも責任を立証できないまま21年2月、銃殺刑の判決が下った。本間によってフィリピンからオーストラリアヘの脱出を余儀なくされ、軍歴に傷がつ.いたマッカーサーの「意趣返し」と言われても仕方なかった。

東京裁判も日本側の異議申し立てをすぺて却下、報復的な判決に向かって突き進むことになる。(皿木喜久)