日本に生まれて私は幸運だった
我が家では、毎年8月15日の朝、夫婦で靖国神社に参拝する。靖国に参るのは、軍国主義だなどという人は、全く当時の人間の心を知らない人だ。

戦死した友への負い目今ももう20年も前になるが、私は早朝から総理官邸で行われていた審議会で、隣席に座った方と親しくなつた。その方は比較的終戦まぢかに学徒動員で軍務に就いた人だが、都心に出る度に、必ず靖国神社に立ち寄って来るという。

「僕が生き残って、友達が死んでしまったということに、負い目がありますからね。せめてあそこに寄って、数分間、戦死した友達と喋ってくるんですよ」

戦争の酷(ひど)さを知って靖国に参る人たちが、ほんとうに筋金入りで戦争を嫌っているのである。我が家も同じだ。夫は終戦直前、2ヵ月だけ二等兵であった。それ迄に学校の同級生があちこちで戦死した。一人は小学校の同級生で、夫は彼の家にお線香を上げに行った。すると死んだ友達の母は、彼を家に入れず、玄関に立ったまま言った。

「あなたが生きていてね、うちの子が死んでしまったってことがどうしても納得できないんですよ」その言葉は夫の胸に突き刺さった。そして再びその母を悲しませないために、自分がその家を訪ねるのは止めようと思った。

もう一人の友は飛行隊にいてアンダマン諸島の上空で散った。恐らく遺骨も帰らなかっただろう。もちろん戦後、私たちは、何度かインドヘ行くためにアンダマン諸島の上を飛ぶ夜行便に乗った。その近くの海域を通る度に、不思議と夫は目覚めるという。夫はこの人の実家にも行ったことがなかった。だから戦後、家族を訪ねることもできない。夫が彼の魂と出会える場所は、靖国だけなのであった。

遺骨帰らぬ台湾人のために

1945年の本土の空襲で、東京も焼け野が原になった。上野の西郷さんの銅像と、銀座4丁目の角、それに渋谷の忠犬ハチ公の銅像くらいが、目印としては生き残ったが、後の町は戦後の区画整理もあって、かつての古い町の面影は留めなくなっていた。

戦死を予期しながら若い青年たちは、死などという重大なことにどう触れていいかわからなかっただろう。彼らはお互いにこれがこの世で会う最後かと思いつつ、「また会おうな」と曖昧な言葉を言い交わして別れた。その時、お互いの心には、再会の場所として靖国神社があった、と戦前の人は言う。あそこなら、お互いに「迷わずに会える」と思ったのだ。

まだ青春の初めに生を終えた人と、戦後の繁栄を見られた生き残り組である人との運命の差は、あまりに違いすぎる。ここにも深い負い目が戦争の忌避に繋がっていた。

私は一人の台湾人のために毎年靖国に参る。その方は、当時日本人としてフィリピンで戦い、日本人として戦死し、その遺体さえついに待ちわぴる父母の元に帰らなかった。その父は、最期まで長男の死を認めず、葬式も出さず墓も作らなかった。

この人生が「安心して暮らせる」場などではなく、常に潜在的にこうした深い矛盾と悲しみに満ちた所だという認識を、なぜ現代の日本人たちは持ち得ないのだろう。

生活はたらふく食べられて当たり前の所ではなく、原型は常に飢えの恐れと闘う場なのだということを、私は毎年アフリカヘ行く度に教えられている。

すべて比較の問題だが、日本ほど整えられて個人の生活が守られている国家というものは他に見たことがない。通俗的に言えば、日本に生まれてほんとうに私は幸運だったのである。

靖国の社前で何を語るか

だから私は感謝を示すために、少しは国家のために働こうと思う。税金を払うのも当然だし、後期高齢者医療保険もできるだけ使わずに、私よりもっと体の弱い人に廻そうと思っている。

日本をいい国家だと認めないのも自由だ。しかしそれなら、日本.国籍を離れて、その人が日本よりもっといいと思っている国に移住したらどうか。移住する許可を出さない国家さえあるのに、日本はその恵も全く自由なのである。

1945年の終戦以前に亡くなった人たちに、私は今日の日本国家の繁栄を報告したい。しかし現在の日本人の若者の多くは、日本語さえまともに書けず喋れず読書もしない。最近の若い人たちは、もはやコンピューターを内蔵した着ぐるみのように、教えられたマニュアル語しか喋らない。

或いは、これは高齢者にもいるが、自分が得になることには目の色を変えるが、自分自身は他者のためには金も出さず危険も冒す気もない日本人が増えた。

敗戦前に死んだ人たちにはかぐわしい、毅然とした魂を持つ人が多かった。今年、私は靖国の社前で何を語るだろうか。(そのあやこ)



暑苦しい夏を終わりに     一筆多論 乾正人
今年の夏は、ことのほか暑く感じる。ロンドン五輪の熱戦を頼まれもしないのについつい夜中まで見てしまうからではない。節電せずんば人にあちず、といわんばかりの風潮に逆らえず、わが家でも冷房の温度を高めに設定しているからでもない。政治のあまりのもたつきぶりに不快指数が上がって仕方がないのだ。

金曜の夜ごとに首相官邸前で繰り返されている光景もまた暑苦しい。原発の再稼働に反対する人々が、歩道に張り付いて「さい、かど〜う、はんたい」とがなりたてているのだ。参加者はふだんデモと無縁なベビーカーを押した若い母親やサラリーマン、若者が多い、などと多くの新聞やテレビは報じているが、「他のデモに比べて」という注釈が必要だろう。

確かにそういった人々も見かけはするが、目立っているのは、学園紛争や安保闘争を経験した団塊の世代だ。昔を懐かむかのように、「さい、かど〜う、はんたい。さい、かど〜う、はんたい」と喜々として唱和しているさまを見ると、下の世代に属する筆者は引いてしまう。

もちろん、米軍普天間基地や教科書問題などテーマは違えど、なんでも政府のやることに反対する政党や過激派の関係者、それに左派系労組の面々も要所にちゃんと陣取っている。

野田佳彦首相がつい、「大きな音」(本人は否定しているが)と口走ってしまったのも無理からぬところではある。そんな首相と、デモの主催者らとを会わせ、「原発ゼロ」へ向け首相に圧力をかけようと画策している御仁がいる。

福島第1原発事故の初動対応に失敗した菅直人前首相である。菅氏こそは、事故発生直後に「パニック状態」(官邸関係者)に陥り、地元住民に即座に出すべきだった情報を出さずに混乱に陥れた張本人である。「普通の国」だったら、刑事責任を問われてもおかしくないが、ニッポンは「やさしい国」だ。

国会や政府の事故調査委員会が、当時の官邸の不手際を指摘しても馬耳東風。国会議員をまだ続けているばかりか、国の政策の根幹をなすエネルギー問題にもくちばしを入れようとしているのだから恐れ入る。

第一、首相官邸前で大きな声を出せば国の政策が変わるのなら、議会なんて要らない。これまで国会でろくに原発に関する議論をしてこなかったことこそ反省すべきだろう。

それにしても首都のど真ん中でデモが自由にできるのは結構なことだ。お隣の国では、先日も地方のデモを取材していた朝日新聞記者が、警備当局から殴る蹴るの暴行を受けたそうだ。本紙記者もカメラを奪われそうになった。

デモができる自由を喜びつつ、声の大きな者に流されないようにするには、選挙で民意を間うしかない。今国会が一段落すれば、首相は原発問題を含め国民に一刻も早く判断を仰ぐべきだ。そうしなければ、官邸前デモに象徴される人々の怒りはますます増幅し、さらに暑苦しい夏になるのは必定だ。(論説委員)産経新聞H24.8.8

野田首相に申す 日本の自画像を描け   
なんともどかしい政治だろうか。税と社会保障の一体改革に関する3党合意の民自公の駆け引きはなんら心に響いてこない。

一連の議論に、国家、国益によって立つ思想が少しも見えないからだ。首相が政治生命をかけると繰り返した一体改革が潰れていたら、国益はどれほど損なわれていたことか。日本の政治は全く無力だと、国際社会にさらけ出すことの負の影響を、政治家はどう認識しているのか。

首相と民主党の責任は最も大きいとしても、それはまた、自民党を含めた政治全体が負うべき責任である。だからこそ、野田首相はいま一度、自分がこの一体改革で何を目指しているかを明確に訴えなければならない。

武器輸出三原則の緩和をはじめ、首相が日本をまともな国にすべく努力を重ねているのは評価するが、それだけでは不十分だ。まさにここから先の日本の大いなる自画像を首相は描いてみせよ。

たとえば、前述の武器輸出三原則の緩和である。これがインド、英国をはじめ多くの国々の日本への期待をどれほど高めたか。日本人の価値観が凝縮された日本の技術が非常に高い評価を受けているのである。

武器や軍隊というと思考停止に陥ってきた従来の日本から脱皮することの意義を、首相は日本人への元気づけとして語ってよいのである。

自己否定も自らの手足を縛る必要もなく、のびのびと日本人であり続けることの重要性と、そこから生まれる大きな可能性を首相は語るがよい。政治は言葉によって瑞々しい生命を得る。

人々を納得させ、勇気づけるどれだけの言葉を語れるか、そのような考え方をどれほど身につけているかが首相に問われている。

一体改革法案についても同様だ。3党合意で増税は決定したが、社会保障の充実については国民会議で1年間議論するという。

5%の増税で見込まれる約12・5兆円の歳入増を財政赤字の圧縮や福祉や年金などの充実にどうつなげていくのか。国民の側にある疑念は深いが、自らの信念で語り、どこまで支持を勝ちとっていけるか否かが焦点だ。

この法案の行方は「決められない政治」から脱却し、膨大な財政赤字を減らす一歩を踏み出し、再び力強い日本をつくれるか否かの分岐点ともなる。

同時に、現在の厳しい国際情勢に日本が打ち勝っていけるのかという間いにもつながる。いま世界は中国の脅威の前に、二分されているといってよい。

中国の膨張主義に対峠するには、日米豪印など、価値観を共有する々の連携が求められている。そのために、日本にとっては経済戦略としてのTPPと安全保障戦略としての日米安保体制の強化が必要である。

昨年の東日本大震災での「トモダチ作戦」以来、日米軍事協力は着実に成果をおさめてきた。そしていま、わが国周辺の状況と切迫度を考えれば、集団的自衛権の行使を決意するときだ。首相は森本敏防衛相を起用した意味を、生かすの
だ。

中国は7月24日、南シナ海の西沙、中沙、南沙群島をまとめた三沙市を正式に発足させ、海南省に三沙警備区を設定した。

行政組織の整備に先立ち、海南省の漁船30隻が船隊を組み、78時間の長い航海を経て南沙諸島の永暑礁海域に到達した。漁業監視船「漁政301」の見守る中、彼らは約10日間、漁を続けた。

中国政府はこの種の実力行使はこれから頻度を高めると、見せつけた。

南シナ海領有で力を前面に押し出す手法に、米国国務省は8月4日、「間題解決に向けた協力的な外交努力に逆行し、地域の緊張を高める危険がある」と抗議した。

中国外務省は即、「(米国は)重大な誤ったシグナルを送った」として「強い不満と断固たる反.対」を表明した。米国には南シナ海問題に介入させないという強い意志である。

尖閣防衛の手立てが急がれるゆえんである。尖閣諸島と東シナ海の戦略的重要性を考えれば、まず取り組むべきは台湾との関係の整備である。日本と歴史的なつながりの深い台湾を、尖閣問題で中国と組ませてはならない。

台湾側が従来問題にしてきたのは尖閣周辺海域での漁業権だ。かつて日台の漁民はあの海で共に漁をした。これら台湾の人々に、尖閣周辺の日本の排他的経済水域(EEZ)内での漁を許す枠組みを早急に作り、乱獲防止の協定を整え、日台共栄の漁場を造ることが、日本の漁業の発展にもつながる。

加えて、尖閣諸島に関しては国家として振る舞うことが大事である。たとえば大東亜戦争末期、石垣島からの疎開の船が尖閣の海で撃沈され、あるいは大破して多くの犠牲者が出た。その人々の慰霊のため行動する議員連盟」(山谷えり子会長)が魚釣島への上陸を求めている。

戦争の犠牲者の慰霊を政府が許可し、奨励するのが当然であろう。多くの機会に多くの日本人が島の歴史を知り、島を活用できるように、政府であればこそ、できるのである。

中国という隣国と、協調と対立を念頭に関係を維持しなければならないいま、日本の不安は、この国がどこに向かおうとしているのかを、政治が示しえていないことだ。

だからこそ、首相は日本の国益だけを考え、大きな方向性を行動で示さなければならない。その第一歩は、やはり8月15日、よき日本人として靖国神社に参拝することだ。
情報源:産経新聞H24.8.9 野田首相に申す 櫻井よしこ