『一宮ノォト』・『日本六十八力国一宮巡歴記』出版記念
『壱岐国ルネッサンス』発表会 御礼と報告

拝啓  桃の節句の李節となり、大地に芽が生えてきました。新大阪ワシントンホテルプラザで、2月26日、『一の宮フォト』(齋藤盛之著・思文閣出版)・『日本六十八力国一宮巡歴記』(生谷陽乏助著・日経大阪PR)出版記念と”壱岐国ルネッサンス”発表会に、山城国一の宮賀茂御祖神社宮陽権宮司・伊勢国一の宮椿大神社山本行宗禰宣(前宮司の弟)・舟波国一の宮出雲大入」神竃岩田昌樹宮司・多田神社福本賀郎宮司をはじめ、多くの方々がご参加いただきましてありがとうございました。ここに著者ならびに主催者を代表いたしまして感謝とお礼を申しあげます。全国一の宮百万入巡拝は21世紀地球共生へ一人一人の行為と確信しています。'壱岐国ルネッサンズ”9月16日〜18日には、ぜひご参加ください。壱岐国より古代と未来への虹がかかります。 敬具

平成15('04)年3月5日
l全国一の宮巡拝会世話入代表
入江孝一郎

見えない力に動かされて
昭和62年(1987)5月日本廻国記 一宮巡歴』(川村ニ郎著)・昭和63年(1988)11月『一宮巡拝の旅』(拙著〕が発行され、各地で全国一の宮巡拝者か出はじめました。それに刺激されたのか平成3年(1991)、行政サイドから”一の宮サミット”が閲催され、伊勢国一の宮椿大神社山本行隆宮司が、諸国一の宮宮司に呼びかけ「全国一の宮会」を結成、その幹事長・事務局長を引き受けて発足しました。平成6年(1992)総会に招かれ、全国に一の宮があることを知らすのが一番と発言しました。

年一度の全国一の宮会総会に欠かさず出席するようになり、平成8年(1996)一月にドイツの製薬会社が年4回発行のPR誌「一宮ノオト」が連載されました。不思議なことこに関係ない私がすぐにこれを見ることなり、電話で全国一の宮に寄贈を頼みました。その編集長が全国一の宮巡拝会関西プロック世話人関口行弘さんです。それ以来、全国一の宮会総会にともに出席、お互い一の宮に虜になりました。力ラー写真のある「一宮ノオト」は、各一の宮でも評判となり、一の宮が知られることに勇気づけられました。

全国一の宮会結成以来、制作費の負担のことで懸案になっていた「全国一の宮御朱印帳」を、平成10年(1998)11月22日に完成し、椿大神社に納めました。先ず"隗より始めよ"というので、1年余で完拝しました、また、「一宮ノウト.」の読者からも巡拝する人が増え、関ロさんから巡拝する人の会を考えるように言われました。御朱印の巡拝をしてみて、宮司だけのお宮は連絡しないと、すぐに御朱印がいただきにくい所があり、様々です。各社で一の宮のインフォメーションがなされていないことを感じました。

平成11年(1999)7月,「一の宮巡拝会報」を年4回、2万部を印刷して社頭で配布することにしました。百万入巡拝を目標に、全国一の宮会と巡拝会は、車の両輪で巡拝を推進することになりました。百万人を目指す以上その種を播かねばと思わせられました。しかし、費用を考えたら何事もできません。神様から思わせられたらその通りに素直になって行動することを教えられました。諺に、「ふと思わす神心、後で迷わす人心」と言われるように、神様を中心にして行動することです。

そんなことを言っても、勘定するとできなくなります。禅をすると、我執を去れといわれますが無我になるのは難しいことです。無我になろうとしても肉体をもつ身は我は出てくるものです。平成13年(2001)1月発行の会報7号は、新年の参拝者を対象に、暮れ忙しいなか百万部を印刷し、大型トラック2台で、受け入れる一の宮に届け、暮れから新年の参拝者に配布していただきました。配布に協力した一の宮の神職の方々も、大変にご苦労をかけました。損得の世の中に、目に見えない力に素直に動かされ、播いた種はやがて大きな実りになると確信してします。

一の宮巡拝をバイクで走る中部ブロック世話人大谷武司さんは、愛知県の公務員ですが、休日と休暇を使って一年で巡拝を完拝しました。巡拝したくても暇がないと言う人がいますが、その気になれば大谷さんのように出來るものです。その気を自分で起こすことです。その大谷さんが肥前国一の宮与止日女神社を夕刻に参拝し、今日はこれで終わりだと思ってたところに、これから参拝に行きたいと社務所に電話があり、それを聞き、バイクだと人と会えないので、どんな人かと待っているとアメリカ人の青年が来ました。その人が山陰プロッグ世話人ダスティン・キッドさんです。彼は昨年12月23日、出雲国一の宮出雲大社で、千家尊裕宮司より106番目の御朱印帳に記帳していただき、完拝、そのことが朝日新聞を初め地元紙に報道されました。彼は、目に見えない力を一の宮巡拝で感得し、将来は古神道をアメし力人に伝えたいといっています。

一の宮巡拝は、巡拝を重ねているうち、目分がという小我が消えて唯々神様に感謝の気持が湧いてきます。キッドさんのように理屈がない方が素直に神様の気が受けいれられます。椿大神社山本行隆宮司は、17年前アメリカに分社を建立し、現在シアトル郊外にアメリ力椿大神社が鎮座しています。アメリ力人のコウイチ・バリッシユ禰宣夫妻が境内を流れるピルチヤッグ川で禊を行ない、新年参拝者が1500人を越すまでになり、見えない力で世界が動いています。

元気の素は神様のところにあります、一の宮巡拝は元気をいただく旅であり、その証が御朱印帳です。一の宮巡拝は、団体よりも個々が参拝する方が神様と向き合い神力が直接受け入れられます。本年の暦を見たら数えで80歳というので、我ながう驚いていますが元気でいられるのは全国一の宮巡拝のお陰です。生きている限り元気でいたいのは誰しもが願うことで、それには一の宮巡拝をおすすめします。

昨年6月6日、椿大神社で倭一二三さんが、「一の宮行脚・倭舞」の舞始めをするので、山本行隆宮司と参列し、そのとき、出来たばかりの『中今に生きる』という著書にサインしていただきました。それが最後のお別れで、8月1日の80歳の誕生日に幽界に逝かれました。神道では「中今」に生きるといいまずが、精一杯生きることで、壮列なる戦中派の生きざまをみまJた。

9月4日、安芸国一の宮厳島神社で全国一の宮会・巡拝会合同で正式参拝をし、国宝舞台で会員の倭一ニ三さんと藤間勘穂紫乃さんが奉納舞をしましたが、この設定も山本宮貫が厳島神社野坂元良宮司に電話で頼んで下さったものです。宮島での会員初会合のとき「一宮ノオト」の出版が決まりました。関□さんと有志で出版記念会を開こうと話していました。それが年も明けましたところ、会員の生谷陽之助さんから『日本六十八力所一宮巡歴記」を日経大阪PRから出版するので協力を申し込まれました。巡拝者の中から一の宮の本が出来るのは、大変に有難いことです。

『一宮ノオト』とともに大阪で出版記念会を巡拝会主催で開催と思いました。東京と違って大阪では多少は不安がありましたが、準備を始めましたところ、絶版になっていた『日本廻国記一宮巡歴』も版元をかえて再刊され、一の宮に関する本がいろいろの出版社から10冊を越えるようになりました。これらのはたらきが、全国一の宮巡拝の流れに大きな影響を与えます。生谷陽之助さんは日経大阪の猛烈サラリーマンとして活躍し、定年になって一の宮巡拝をご夫婦で始め、そのうちに疑問に思ったことを調べて出し、これから巡拝する人にも役に立つのではないかと思い、古巣の新聞社に相談し、出版担当者に読めるものに助力して貰ったものです。これからも巡拝者の中から神様の系統などを調べていて、本にまとめる人も出て、「一の宮学」が成立するものと期待がもてました。つづいて倭一二三さんが、「倭舞奉納一の宮行脚」について話してもらいました。

壱岐国一の宮天手長神社のこと
延宝4年(1676)3月4日橘三喜は藩主松浦鎮信の命で壱岐勝本浦に着き、式内84社の調査をしました。『一宮巡詣記」に「天手長男神社は壱岐国宗廟たりといえども、跡かたもなくとあります。後に藩主は社殿を建てたのが今の社殿です。それなのに昭和48年(1973)8月、韓国の見学から壱岐・対馬の旅を実施しました。その時、バス会社に手配したのですが、天手長男神社を探すのに相当苦労をしました。やつと辿りつきましたか、草が芝々で誰もいません。参拝をすませ先を急ぎました。壱岐国一の宮、式内名神大社がわずかな人しか知らないのを情けなく思いました。

その後、何回か訪れましたが、一の宮の看板が立てられているのに嬉しく思いました。何故、壱岐国一の宮が忘れられたか、それは元寇の役で占領され、そのときの怨念が残っているのでないかと、考えさせられました。伊勢国一の宮椿大神社山本行隆宮司から「今日のような社殿になったのは昭和43年(1968)からで、それまでは伊勢国一の宮が、何故寂れているのか、一心に禊行をしたところ、織田信長の伊勢攻めに社家の山本一族が抵抗したため、神宮寺ともに壊滅され殺された。壊されたご本尊が現れましたので、必ず再現しこ祀りしますと誓い、それ以来、社運が上昇し、現在行満殿に新しく彫って尊像を祀っています。」と伺った。

歴史として記録されているが、そのとき斬殺されたままの状態で、地中に放棄され怨霊となっています。怨霊は救いを求めていますが、誰も聞いてはくれません、それを聞きとどけられたとき、厄は反転したのですが、目に見えない世界は科学的でない迷信として片付けられてきました。平成11年(1999)10月6日、壱岐国一の宮へ御朱印をいただくため行きました。そのとき関□さんを誘い「一宮ノオト」取材で齋藤盛之さんも同行しました。前日宿泊のとき一の宮の話しをしていたのを有馬黎子さんが知り、天手長男神社でお会いしました。昨年14年4月壱岐国一の宮川原初穂宮司が亡くなられ、御朱印が佳吉神社に預けられていることを大分過ぎてから聞きました。壱岐島まで行って御朱印がいただけないと巡拝者はさぞ困ると思い、8月に壱岐の知入に連絡して働きかけました。

それが有馬さんに伝わり、電話で有馬さんから占部英幸さんを紹介され電話をいただきました。壱岐国一の宮の再興というべき、一の宮を中心の壱岐国復興を告げられました。大阪の設計士菊園武彦さんは神社建築の設計奉仕をかってでくれました。嬉しい知らせがきましたが、先ず、元冠の役の敵味万鎮魂祭からと提案しました。それもすんなりと伝わり、さらに壱岐国分寺にも伝わり、壱岐国分寺でも敵昧方供養法要を決められたことが伝えられましだ。壱岐国分寺は臨済宗で、元冠がおわってすぐ、執権北条時宗は、敵味方供養のため鎌倉円覚寿を建立しました。皇良親王の御霊神社や菅原道真の天満宮など怨霊や敵味方の怨念を鎮めることを、かつての日本人は知っていました。壱岐国一の宮を中心とする動きが、壱岐おこしの観光とつながり、目に見えない力が加わったのか壱岐観光協会も加わることに進みました。そうなると元寇の役の敵味方鎮魂供養が面になると思い”壱岐国ルネッサンス”のタイトルにしました。

ここで考えなけれぱならないのは、明治国家が行った明治元年(1868)神仏分離、明治22年(1889)政教分離の二つの政策が千年にわたる日本人の精神的を根底から変えようとする上からの改革でした,,その過ちが百年余たった今日、日本人では考えられない現象が日々起きています。観光でもすぐ宗教色云々を言います。世界の観光で宗教色を除いたら何が残るか、観光にたずさわる人は真剣に考えて下さい。イスラムのメッ力巡礼、京都・奈艮から社寺を除いたら何が残りますか。四国八十八力所遍路はプームが定着しています。観光とは、光を観ると書きます。光を求めて旅人は旅をするのです。高度成長期の団体指向から個々の旅人に焦点を合わせるときにきています。

モンゴル大使にお会して
『一宮ノオト』の齋藤さんと関口さんと1月17日に昼食をともにしました、そのとき、齋藤さんにモンゴル大使館に連絡つきませんかと何気なく申し上げました。それから時がたって電話をいただきました。2月14日2時、モンゴル大使と会うことになったので、打合わせをして齋藤さんの通訳で大使に会いました。そのとき大使に、1274年10月20日・1281年7月1日元軍来襲で占領された壱岐で、敵味方鎮魂供養にモンゴルからも来てほしいと頼みました。大使は文書にしてくれれば、本国政府に伝えると快く受けいれてくれました。大使の通訳した人が会津の人なので怨恨のことは理解して、私が伝えますので日本語で出して下さいといわれました。

不思議なくらい目に見えない力を感じました。モンゴルにはガンダン寺・レプン寺・セラ寺というチベット仏教三大寺があります。この結果を関□さんに電話で連絡すると、2月16日には毎月の高野山参詣に行きますから話してみますということであった。壱岐国ルネッサンス発表は、プログラムにある通り、村田好弘実行委員長(壱岐観光協会会長)が発表し、壱岐で古代讃歌を歌うミネハハさんが歌を披露しくれました。一の宮巡拝会の集いは、初めてお会いする人たちばかりですが、永年のつきあいのように和気合々の気分がみなぎり、みなさんの笑顔が素晴らしいことを感じます。新大阪ワシントンホテルプラザでの『一宮ノオト』旧本六十八力所・一宮巡歴記」出版記念・”壱岐国ルネッサンス”発表会は楽しく成功におわりました。9月16日〜18日の”壱岐国ルネッサンス”にも参加して下さい。きっと素晴らしい目に見えない力がいただけます。

高野山奥の院と蓮花院へ
翌日9時30分、関口さんの車で、壱岐の占部英幸さんと有馬黎子さんとで高野山に向かいました。弘法大師さんの奥の院を参拝し、13時30分徳川家菩提寺蓮花寺東山泰清住職とも会し、9月16日〜18日の壱岐国での元冠の役の敵味方鎮魂供養のことを話し、モンゴルの寺院から僧侶を迎え、供養することの意義は霊的にも大きいことを話した。その結果のことなど伝燈大阿闇梨東山泰清上綱が壱岐に行き、当ることを約束しました。元冠の役の戦場となった壱岐でモンゴル・中国・韓国・日本が、敵味方鎮魂をずることは、テロや戦争・紛争に怯える今日、目に見えない大きな力に導かれているようです。次は韓国の壬申倭乱(秀吉の朝鮮出兵)の敵味方供養が残っていますと話して高野山を後にした。その夜は、関口さんとニ人でワシントンホテルの23階で、大阪の夜景を見ながら打ちげ上げをした。