読者から 大東亜戦争末期、特攻隊の出撃地で整備隊長だった私は、特攻隊の出撃直前の姿を撮影しました。その写真が最近、自宅から見つかりました。戦後六十年間、私は、彼らに生かしてもらってここまで元気にやってこられたという思いでいっぱいです。せめて隊員の家族や親族にこの写真を渡したいと考え、行方を探しています。 無職 関忠博さん(八四)・・・横浜市旭区 |
満面の笑みを見せる、出撃直前の特攻隊員たち
11昭和20年4月22日、台湾・桃園飛行場(関忠博さん撮影)
「写真をぜひとも家族に」と話す関忠博さん(84歳)
横浜市の自宅
日陸軍整備隊長 関 忠博さん撮影 「家族に届けたい」・・復員時、靴に隠し没収回避 関さんは日陸軍航空整備学校を卒業後、教官として第三練成飛行隊に所属、昭和十九年五月に当時日本が統治していた台湾に渡りました。戦局は時を追って悪化しており、翌二十年四月には米軍が沖縄に上陸。このころ志願者を募り、台湾で編成された特攻隊の一つが、十四人からなる「陸軍特攻誠第百十九飛行隊」、(指揮官=竹垣全少尉)でした。関さんによると、十四人は、少年航空兵出身で十八、十九歳くらいだった十人と、学徒出陣した二十三、四歳くらいの四人だったといいます。 整備隊長としての指導のかたわら、隊員たちと日々語り合った関さんは「彼らには不思議なほど悲壮感はなく、全員が実に冷静に死について考えていた」と振り返ります。出撃までは軍規の拘束を受けない自由が与えられましたが、隊員たちはあまり外出せず、家族や故郷のある日本を守るには、「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたそうです。 出撃は四月二十二日。最後の姿を残してあげたいと、出撃前の午前八時半ごろ、台湾北部の桃園飛行場の滑走路近くで隊員たちがそろった場面を撮影、これが彼らの最後の写真となりました。死を前にしても、全員が満面の笑みをたたえていたのが印象的だったといいます。 そして午前十時ごろ、二式複座戦闘機「屠龍」十四機に隊員らが乗り込み、離陸。飛行隊は石垣島に立ち寄って五百キロ爆弾を積み、沖縄本島周辺で米軍の巡洋艦と貨物船とみられる船を一隻ずつ、撃沈しました。しかし、米軍から猛烈な機関砲射撃に遭い、途中で撃墜された機も多く、生還したのは、離陸後間もなく海に落ちた一機のみでした。 終戦後、関さんは台湾の収容所生活を経て二十一年三月に復員。基隆(台湾北部)を出発する際には写真や光学機械、時計を持ち帰ることが禁止されましたが、「この写真は何としても残したいと思い、靴底に隠して、検査をすり抜けた」。こうして隊員たちの笑顔だけ、本土に持ち帰ることができました。戦後の日々、「彼らに生かしてもらっている」という感謝と申し訳ない気持ちで過ごしてきたという関さん。昨年、パソコンで、古い写真を探してはスキャナーで読み込み、電子アルバムを作っていたところ、心にひっかかっていたこの写真を見つけました。 関さんは「戦争の勝ち負けは関係なく、特攻隊員が純粋に国を思い、犠牲になったからこそ今の日本がある。'時間がたっても笑顔は色あせていない。この写真を家族に届けたい」として情報を求めています。 ・・・・(特集部 草下健夫)・・産経新聞平成17年1月16日から・・・ |