台湾協会報 平成25年(2013年)1月15日 日はまた昇る 人生の日本史 講演会 強運な台湾人青春 講師 呉 正男氏 信用組合 「横浜華銀」 前理事長 日本李登輝友の会理事 横浜台湾同郷会最高顧問等 はじめに 齋藤理事長よりご紹介頂きました呉でございます。私がこうやってこの会に呼ばれてお話し出来るのも、旧軍隊を経験した方達は皆、九十歳前後になっているにも拘らず、私は八十五歳で旧軍に関係したのは非常に少ない、こうして元気に皆さんの前に上がれるので、希少価値で選ばれたのではないかと思います。 私は永年台湾協会の会員で、いろんな投稿をしておりますので、ある程度ご存知の方がいらっしゃるのではないかと思います。最近ではNHKのど自慢台湾開催実現の署名運動の会長として何回か投稿したり、台湾人に対する戦後補償についても投稿しております。齋藤さんから、依頼があった時に軽くOKしてしまったのですが、後で考えてみたら、台湾の政治情勢とか日台友好とかそういう高所からの話ではなしに、私個人の話ですので果たして人が集まるのか非常に心配しました。 私は非常に運が良かった、私のいろんなマイナスが幸いして今日の私があるので「強運な台湾人青春」を演題にしました。神様に感謝していると申しますか非常に信心深くもなり、日本嬬祖会の副会長を何十年かやり、今は幹事長をしております。 え買えば内地へ来れたのですね。 又、関東のお伊勢さん云われております伊勢山皇大神宮と云う横浜・桜木町そばにあり神職が約二十五人も居られる大きな神社の総代に任命されました。神社の総代に台湾人が就任したのは、私だけと大変光栄に思っております。私が今日健在なのは、神仏のおかげだと信じている次第です。前置きが長くなりましたが、漫談調になるかと思いますけど、少し時間を残しまして、皆さんの質問を頂きたいと思います。 内地留学 昭和十六年四月に内地に留学しました。留学は、今は大学ですが、あの頃は中学でも留学なんですね。 私は斗六尋常高等小学校と云う日本人学校に入ったんです。同級生が約三十人の小さな学校ですが、台湾 人の共学生は私のクラスは六人もおりました。小学校六年卒で嘉義中学を受けて落ちました。高等科一年で受けてまた落ちました。高等科二年を卒業したら、三度目の嘉義中学受験かなと思っていましたら、親が日本に行けと云う事になりました。あの頃は、船の切符さ買えば内地へ来れたのですね。中学受験一回不合格した結果内地留学でした。 志願入隊 昭和十九年の四月に、陸軍特別幹部候補生を志願して入隊しました。昭和十六年十二月が大東亜戦争開姶で十七年ごろは良かったんですが、十八年になるともう敗色が濃くなってあっちこっちで玉砕、転進。転進と云うのは本当は退却なんですね。日本の国家が危ないという時代になりました。 実は私、斗六小学校で四年、五年、六年、高等科一年と四年間剣道をやっていました。中学二年の時には講道館で剣道初段を取ったぐらいだから、私は云うなれば硬派だったのです。そういう関係で活発な愛国少年になってしまったのです。 昭和十八年の夏ごろに親父に、志願入隊したいと云う手紙を出したんですけどなかなか返事が来なかったのです。私は郵便為替で毎月学費を送って貰っていたんです。親父に、親父の許可を得ずに入隊する、今後学費を送ってくれなくて良い、新聞配達をやるからと書いたのです。すぐ親父から電報が来ましこ。お前の信念通りにやれと。あの頃の少年は、どうせ戦争に行くなら飛行機に乗った方が良いと、みんな航空隊を志願するんですね。 新設の特別幹部侯補生を志願して、陸軍水戸航空通信学校に、昭和十九年四月入隊しました。入隊した時には十二個中隊のある中隊に入りましたら何人かが呼び出されて、更に試験を受けて空中勤務者の中隊に入ったんです。一個中隊だけが機上通信士養成の中隊でした。対空通信象通信とか、或いは飛行場同士の通信とかを航空通信と云うのですね。 皆が希望している中隊に入ったので羨ましがられましたが、要するに飛行機乗りは消耗品なんです。あの頃の運動競技は棒倒しとか騎馬戦とか、あらゆることを他の中隊に負けないように訓練を受けました。特別幹部候補生と云うのは、海軍の予科練と同じなんです。あの頃の幹部候補生と云うと皆さんすぐに将校を思うんですけど、下士官養成のクラスなんです。 滑空飛行 戦隊配属 四月入隊で翌年三月が卒業なんですけど、戦局が非常に厳しいので、昭和十九年十二月末転属命令が出て西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に配属されました。着いたその戦隊は南方に出撃する直前でした。私は搭乗機を指定され夏服に着替えさせられました。私物、郵便貯金や、必要なら遺書も遺髪、爪、を家族に全部送れと云う非常に切迫した状態だったんです。 私はこの部隊がどんな武隊か良く判らなかったが、空挺隊でした。唯有ったのは重爆撃機と大きなグライダーです。そのグライダーに乗る兵隊が、滑空歩兵と云うんですが、グライダーから飛び出して敵の飛行場を撹乱させる挺身兵士です。グライダーには約二十何人かの武装兵が乗れます。滑空歩兵連隊が既に出発していて兵舎が空っぽだったんです。 九七式重爆撃機(写真上)と「ク」八と云う大型滑空機(写真下)が出発する予定だったんです。ところがなかなかスタートしなかった。実はその滑空歩兵が乗船していた航空母艦が上海沖で十二月十九日に沈没したので、滑空戦隊の出発が中止になりました。 飛行機がグライダーを百二十メートルのロープで曳行する。九七式重爆撃機というのは紀元二千五百九十七年ですから昭和十二年の重爆撃機です。曳行中を見たら、グライダーの方が九七重より大きいのです。 北朝鮮に移動 滑空歩兵が全滅したので、新規に訓練をしようとしましても昭和二十年に入りますとB二十九の空襲が激しくなります。B二十九は筑波山のそばにある西筑波飛行場には爆弾は落とさず全部東京で落とすのです。空襲警報が発令されると、松林の中に隠れるのです。訓練にならないので、結局昭和二十年の五月末に朝鮮北部日本海に面した宣徳飛行場に移りました。 この宣徳飛行場は、北朝鮮に未だありす。戦局は四月には沖縄に敵が上陸しておりますので、今度は沖縄に出撃を予測して主に夜間訓練でした。夜間の離着陸です。九七重がグライダーを曳行して上空でグライダーを離して、グライダーが着陸する前に、曳行ロープを飛行場に落としてから着陸する、そう云う事を連夜繰り返しておりました。 夜間飛行訓練中、着陸する重爆撃機の翼に当たって十人ぐらいが死亡した事故もありました。滑空戦隊は飛行機がグライダーを曳行中の速度が、時速百八十キロなんですね、今の新幹線の半分近い速度しか出せなかったのです。 吾が戦隊は、仲々出撃の機会がなかったのです。九七重で着陸したのが義烈空挺隊だったんです。この空挺隊を私達の飛行場で見ております。 二十年五月二十五日沖縄に向け九七重に十一人か十二人か乗り、十二機出撃して、一機だけ沖縄の北飛行場に着陸して飛行場を数日間ばかり荒らしまわったという記録があります。即ち十二分の一の成功率です。 特攻隊の 選に漏れる 温存されていた吾が滑空戦隊を地上戦闘終了後の沖縄に出撃する事になり、空中勤務者全員は七月初旬頃、飛行場の中にある神社に集められ、紙切れを渡されまして、特攻志願の意識調査がありました。その紙に三つ書いてありした。志望、熱望、熱烈望。この三つにマルを付けろと。これでもう命が決まる、順番が来たなと私は熱烈望にマルを付けました。 それですぐ特攻要員が決定したんです。飛行機の方は正操縦士と副操縦士、そして機上機関士、通信士、射手、航法士の六人。グライダーの方では正操縦士と副操縦士の二人です。私達の滑空戦隊は、八人が八機で六十四人が特攻要員です。優秀な者ばかりが選ばれたんですね。私は通信技能が良くなかったせいか選れませんでした。 神龍特別攻撃隊桜空挺隊として出撃した人たちは絶対戻って来ないと見送りました。所が出発したのが何と八月五日なんです。終戦の十日前なんです。死ぬと思って行った人たちは、東京都立川飛行場の近くの福生飛行場で終戦になって、すぐ帰宅しました。生き残れたと思って手を振った私達が、ソ連に抑留されたり、あるいは三十八度線を越えて南朝鮮に脱出するのに、色々苦労がありました。 終戦・ 抑留される 終戦の時には北朝鮮にいて、ソ連に抑留されました。この抑留そのものは私から見れば非常に幸せなんです。もし入隊しなければ東京大空襲に会っていただろうし、筑波飛行場にいたら、焼け野が原の東京から台湾に帰ったんじゃないかと。 ソ連に抑留で台湾に帰れなかった。私が今日あるのも結果論で言ったら、一番幸せだった抑留と思うんです。終戦になり、残った留守部隊の隊長が、終戦前に受けた命令に従い、戦後の十六日に北へ向かったんですけど、不穏な空気を察し、平壌飛行場に八月二十日に入りました。次の命令待ちと云う事でした。 飛行場の端っこの大同江で水泳をして遊んでおりました。二十五日にソ連の飛行機の着陸があり、これは危ないなど云う事になりまして、南方の三十八度線越えをしようと退散する事にしました。 退散する時には、色々航空糧食があり、内地に帰れば非常に高く売れると思って持って出発しました。やはりそれを捨てて、途中で軍服を脱いで朝鮮服に着替えました。偶々三人で山中を歩いていて下を見たら鉄道があったので、線路の上を歩るいていると北の方から避難民列車が来たんです。止まり、乗れと云うのです。避難民には女性、老人、子供が多かったんです。 新幕駅でその列車が止まって、陸軍の大尉とソ連民間人と云っても通るのに、前へ出ました。私と衛生伍長の二人を含め、二十人ばかりの元軍人を南朝鮮の米軍に渡すよりもソ連の方で日本海側から返すんだろうと思い、ソ連の兵隊二人と二十人が三十八度線の北側を東へ向かって一週間歩きました。野宿です。 面白い事に、兵隊が、二十人もいるんですから、ソ連兵二人位ひねるのはそう難しくないんじゃないか、と云う話も出るんですね。途中から飛び込んでくる兵隊もいるんですね。一般人では朝鮮人から迫害の恐れがありこのグループに入った方が間題はないと。或いは飛び出していなくなったと思ったらまた戻ってくるのがいたり、これならソ連兵の二人を殺害して逃走しない方が良いんじゃないかと歩いたのを覚えています。(三面に続く) (三面から続く) 結局元山迄、一週間ばかりで朝鮮半島の西から東迄歩いたのです。そこから貨車に乗り北上して、興南と云う港で下車しました。興南は、私がいた宣徳飛行場のすぐそばなんです。つい一か月前まではこの港の上を飛んでいたんですね。それが一ヶ月後には抑留者となってこの港へ着いたと云う事です。 昭和二十年十月、興南港から、日本へ向かうんだと思って乗船したが、北へ向かう事は判りますね。ボセット湾、ウラジオストックの南です。ウラジオストックから日本内地へ行く船に乗るんだと、そう云う希望をまた持つもんなんですね。 カザフスタンへ ところが、船でなく貨車に乗つた。荷物を積む屋根のある貨車ですね。真ん中に扉があって、右左に棚があって、上下に十人ずつだったら、四十人ぐらいで一貨車。そして扉閉めます。竹筒が一本出ているからオシッコは出来るんですが大便は出来なくて、汽車が途中で石炭や水補充の為に停車する時に、線路に降りて用を足すのです。 私達の列車だけでなしに、前の列車も皆同じ場所でしてますので、糞だらけでした。実は西へ西へ向かって二十三日間も乗ったんです。これはヨーロッパに着いて仕舞うんじゃないかと思ったんですがね、どこまで連行されるのか前途不安でした。 収容所の生活 着いた所が中央アジア・カザフスタンのグジルオルダ収容所でした。カザフスタンは大きく、私がいたところははるか西の方です。黒海の東にカスピ海があつて、その東にアラル海があり、南側に私達の収容所がありました。半砂漠で、小さな草木がありました。ラクダも通っていました。私は車中からマラリアが発病しました。マラリアが出ると震えて熱が出るんですね。あんまり震えが激しかったんで、仲間に上に座つて貰いました。 労働は三ランクだったと覚えていますけど、五%、七五%、百%、と体の具合によつて、軽い作業、中位の、それから正常の、と云う様にわかれておりまして、それを決めるのはふんどし一丁の裸になって、ソ連軍の女医と日本人の軍医の前に立ち、手を出して爪を見せるんですね。三日月があるかないか。私はマラリヤ発症があり痩せて七十五%の中位の作業が多かったのです。 抑留中の話は色んな本とかにあるので省略しましょう。この収容所には約千六百人おりました。二百人ずつ入る宿舎があったから、八棟、要するに左右に四棟ずつあって真ん中にトイレとか食べる所とか、がありました。そんなに死者は出ませんでした。半砂漠だと青い物がないけれど、牛や馬が食べているのを見ると、これは毒じゃないと判断しました。 青い物が目を出すと摘まんでポケットにいれて後で食べました。ああゆう物が一番生えやすいのは、じめじめした所です。ロバがオシッコする様な所に生えやすいんですね。それを採って食べるもんですからね、随分回虫が湧きました。夜中にぱっと吐いたら、長いのが二三メートル先に飛び出しました。あれが口から出ないで上に行ったら脳に行ったと思うんです。ある時、大便に塊が出たんです。棒で数えてみたら、なんと十一匹出たんです。よく腸を回虫に破られなかったと思います。 カザフスタン収容所の場合は、零下二十五度になると仕事しなくて良いという規定があったんです。労働の為門の所に並んでいると収容所の私達の生命を守る担当者は二十五度になったから今日は仕事ないと主張するが、表の方で働かせる為にいる兵隊のグループは、零下二十五度に末だなっていないとやり合っていることもありました。 ソ連の兵隊は掛け算は出来ませんね。五列に並べて五、十、十五とやってますね。何回も何回も数えて何人出て行って何人帰って来たか、寒いのに。零下二十五度と云うのはやっぱり寒いですよ。私もいくらか左足の小指が凍傷になって色が変わったけど、凍傷と云うのは痛くないですね。でも左足の小指は切らずにすみました。 実はあまり抑留時代の話はしたくないんです。嫌な思い出ですからね。あまり私はソ連の事を友人や私の家族にも話しません。自分の収容所を訪ねようとは思いません。本当にいやな所でした。 ダモイ日本 昭和二十二年六月、また列車に二十三日乗って、ウラジオストックに着いたんですけど、ウラジオストックのソ連兵がこのグループは、まだまだ使えるから、ここで使うと云ったんです。カザフスタンから付いてきた兵隊はそれなら連れて帰るとしきりに喧嘩しとるんです。結局、アイウエオ順に半分ダモイと去う事になりまして、幸い私は、あの時改姓して大山正男だったんです。アイウエオ順ですから帰えれました。 もし残留なら私は、台湾人だと云えば帰してくれるんじゃないかと思いましたが、私が台湾人だと云ったらソ連軍から八路軍に渡されたと思います。 復員して 日本在住 舞鶴に七月十三日について十四日に復員手続きをし証明を貰って、外人登録をして住む事が出来たんです。所が三年後に帰ってきた私の把握している台湾人十何人かは、舞鶴から、戦勝国民として送り返すべきとして、皆佐世保に収容されました。佐世保から上海に送られ、基隆に。送られて行く先々で皆牢屋に入れられ二ヵ月半後に帰宅できたのです。 国民党は中国共産党軍と戦争中ですのでソ連から来た若者は、やっぱり簡単には出しませんよね。実はこの席に、三年後にソ連から帰ってこられた香川博司さん(写真下)がおられます。代わりに簡単に説明しますと、香川さんは、佐世保に収容され、いよいよ乗船時に、新しく入ってきた台湾青年が、母親が危篤で早急に帰りたいと。香川さんは自分が乗る船に自分の代わりに彼を乗せたのです。 香川さんは収容所の衛兵に英語でうまく話して、収容所を出たのです。私と同じように非常に幸運な方だと思います。戦後台渡の白色テロ政治犯たちの苦労を見ると、皆十年、二十年、三十年の懲役、或いは死刑になった。私と同じ年代の人はみんな苦労されたのに、随分私は助かったなとつくづく思います。 どうせ親は、死んだと思っているんだから、一旗挙げてから手紙を出そうと思いました。下宿のおぱさんの関係で茨城県の方へ行ってちょっと百姓やったり、麹屋さんで働いたこともあったいけど7、これはどう考えても一旗挙がらないと思いまして、10月頃になって初めて手紙を書きました。「今度は云う事を聞くから指示してくれ」と 新制高校に 入学 所がまさかの、「勉強しろ」と云われたんです。それは私は全然予想しませんでした。兵隊二年、ソ連に二年、中学を受ける時に一年ダブッテいるから五年遅れているんです。新制高校が始まった昭和二十三年四月に、私は中学三年終了ですので、目黒の不動前の攻玉社高校一年生に入りました。 あの頃の五歳は大きい違いですね。同級生から兄貴と思われました。私も少し馬鹿らしくなり、どうしたら早く大学に行かれるかと、考えました。 東京華僑総会へ行き、.「私は嘉義中学を卒業して入隊し、ソ連抑留から復員した、進学の為卒業証明書が必要であるが入手出来ない。と相談したら「理由書に保証人二人を付けた書類の提出」を求められたので、台湾人友人の捺印を貰って提出しました。 華僑総会会長の大捺印を貰い嘉義中学証明書を入手したのです。昔二回も不合格でしたのに。当時旧制中学を出た人は新制高校夜間部四年に行ったら大学受験の資格があったんですね。 それで渋谷高校夜間部四年に入学、高校を一年生と四年生の二ヶ年で、法政大学に入れたわけです。 親父は勉強しろお金は送ると云ったんです。その時の親父の肩書はね、華南銀行の経理、支店長なんですだからたぶん金があつたんでしょうね。 学費はほとんど貰いませんでした。親父は日本に行く人がいると、お金を渡して、横浜にいる息子に渡してくれと頼み、その人は、私に会いに来るけれど、お金を渡してくれなかったのです。物を買って帰った方が儲かったんでしょうね。戦後台湾に帰った時に親父と一緒にその人をとっちめた事を覚えております。 私はパチンコ屋で働きました。横浜伊勢佐木町三丁目の小さなパチンコ屋です。一塁に玉が入るど一個、二塁に入ると二個、三塁三個、ホームランは四個出てきて、その玉何個と煙草何本と取り替える時代です。 小さなパチンコ屋で、私は高校二ヶ年と大学四ケ年、計六ヶ年間働きました台湾人が経営者だったものだから、私は直ぐマネージャーになって、割りに楽な、夜は釘をちょっといじったりと云った仕事をしました。 私は昭和二十九年三月に大学を卒業しました。台湾人留学生仲間はみんな大学を出て、ほとんど卒業しているんですね。台湾は蒋介石の悪い噂が一杯入って来てるけど、新中国の毛沢東の国は素晴らしい国だと云うことで、しかも中国からも「帰って来い」と呼びかけがあったので、僕の仲間は殆ど昭和二十七年・二十八年に大陸に渡りました。 私は舞鶴迄、二回も見送りに行って、昭和二十九年に卒業したら私も新中国に行こうと思っておりましたが中止しました。五年遅れたことが非常に運が良かったと云う事です。 国籍詐称 私は、ソ連に捕虜になった時に本籍地は、漢字で台湾台南州斗六郡と書いたのに、ソ連軍は字が読めないから、日本人として扱い、私が台湾人と気が付かないで、日本へ乗船させてくれたと永く思っていました。 十年くらい前に、捕虜名簿があると云うので申請したところ、入手した捕虜名簿は、ウラジオポストの乗船時に作成されたロシア語の文書でした。なんと、私は、国籍日本、本籍茨城県になっているんですね。これをもし台湾人と申告したら乗船させて呉れなかったんじゃないかと思います。 台湾人であると、ソ連軍が気が付かなかったと思っていたがそうじゃなしに、私は日本人と名乗り出ていたんですね。自分でも不思議に思っています。 本日は私の強運な青春時代について話をしました。中学受験を二回不合格となり、中学三年で志願入隊して機上通信士として参戦し、ソ連に抑留され、国籍を詐称し、五年遅れの復学等々、不運で平坦でない青春でした。その全てが幸運に恵まれた結果になった次第です。 余談 収容所は砂渾地帯ですから、めったにお風呂に入れません。年に二・三回お風呂があるんですけど、着てるものを全部脱いで熱消毒室に入れます。それから中に入って、木の桶に一杯お湯を貰って二人で石鹸使って体を洗って、もう一杯受け取るんだけれど、自分の物とは限らず誰の物か判らない軍服を受け取るんです。そこでだんだん消えて行くのがポケットとか紬なんです。分かりますか。 トイレの紙がないんですね、砂漠地帯だから葉っぱもありません、木の枝もないんですね。どうやって処分したか覚えておりませんけど、ポケットを切っても軍服は軍服、袖を切っても一着は一着なんですね。 そしてまた面白い事に、お風呂の中にカミソリを持った者がいて、陰毛を全部剃るんです。毛虱の関係で。常に帰国の噂があるので、三ヶ月か六カ月すると必ず帰れると思うんですね、帰ったらこんな体では恥ずかしいと笑い話が出るんです。 落ちた所で、何か私に質問があればお受けします。十人の方の広範囲の質問に呉さんは丁寧に答えられて、二時間にわたる講演会は終了しました。香川さんにも多くの方が個人的に質問されていました。 十人の方の広範囲の質問に呉さんは丁寧に答えられて、二時間にわたる講演会は終了しました。香川さんにも多くの方が個人的に質問されていました。 貴重な体験談誠にありがとうございました。 HP管理人 |