歴史戦 一面から続く 根拠なき「30万人殺害」 南京での取材「2日間で4人」 「南京大虐殺記念館」で顕彰されている元朝日新聞記者、本多勝一はカナダ北極圏の先住民に密着取材したルポルタージュなどで評価を高め、かつて「『朝日』のエース」(「週刊新潮」昭和46年9月25日号)ともてはやされたジャーナリズム界の"寵児"だった。その本多と「南京」のかかわりは46年、朝日新聞夕刊での連載記事に始まる。タイトルは中国の旅」。この年6月から7月にかけ約40日間、本多が中国各地を回った際の取材ルポだ。 連載は8月から12月まで全40回に及び、旧日本軍兵士らが中国各地で行ったという生々しい「残虐行為」を毎回のように克明に伝えた。「強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心蔵と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという」 「日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した」これらは、本多が中国で取材した「生き証人」らが語った内容だった。にわかには信じがたい「蛮行」の数々は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。 反発も大きく、一連の記事は、旧日本軍関係者らが否定したり、多数の疑義が呈されたりした。朝日に対しては「ごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(朝日新聞社史大正・昭和戦前編)といい、論壇では「中国の旅」が報じた「南京大虐殺」などをめぐって論争が巻き起こる。 「日本軍は長江に近い二つの門も突破して、南京城外へくりだした。(中略)南京城北七キロの燕子磯では十万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追出しておいて、機関銃で皆殺しにした。(中略)南京城内も合わせて約二十万人が殺されたとみられている」(46年11月5日朝日夕刊) これは9歳のころ、「南京大虐殺」を体験したという南京港務局内河船員の姜根福(連載当時43歳)が、本多に語った12年12月の南京陥落後の状況だ。 「中国の旅」第3部は「『南京大虐殺』の被害者たち」の証言を10回にわたり伝えた。46年7月、空路南京入りした本多が、「二日間に四人から取材した」内容だ。 四人のうちの一人、姜の話を基に本多は「紫金山でも二千人が生埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬までニカ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された」(46年11月5日)とも伝えた。 広島、長崎への原爆投下による合計犠牲者(推定)に匹敵する20万人や、「南京大虐殺記念館」の入り口に大書されている30万人が犠牲者数としてさらりと登場する。だが、姜は何ら根拠は示していない。 一方、12年12月の南京攻略戦時、取材団80人あまりを現地に送り込んだ朝日新聞は、本多の記事とは全く異なる情景を報じている。「中山路の本社臨時支局にゐても、もう銃声も砲声も聞えない。(中略)もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るやうな錯覚を起す。 住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹返して居る」(「東京朝日新聞」12年12月16日) 連載当時、南京攻略戦に参加した元兵士や従軍取材した朝日新聞記者が多数存命していた。にもかかわらず、本多が日本側の証人に、裏取り取材をした形跡は見られない。 「南京事件」をめぐるプロパガンダ(政治宣伝)を研究している明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次はこう指摘する。「彼のルポルタージュは中国の"御用聞き"よろしく、史実に対する一切の検証も批判も度外視し、中国側の言い分を朝日新聞を通じて、一方的に垂れ流すものにすぎない」 「歴史戦」取材班は4月、本多が編集委員を務める週刊金曜日編集部を通じ、「中国の旅」第3部で取り上けた中国人の証言や証言に基づいて報じた内容がすべて「歴史的事実であると考えるか」と質問した。同編集部によると、本多からは「『産経新聞』の取材・報道姿勢等にこれまで多くの疑義を抱いているため、回答は差し控えたい」という趣旨の連絡があったという。 取材班は朝日新聞広報部にも「中国の旅」に関して「事実と異なる部分」について今後紙面で訂正や取り消しをする予定はあるか質問した。広報部は「古い話であり、現時点では回答できることはありません」としている。(敬称略) |