トインビーの紹介者
公益事業委員会から退いた松永に、鈴木大拙はトインビーの大著「歴史の研究」を挙げて説いた。「戦前の日本人は一種偏狭の頭でっかちであった。精神主義に走って事を間違えた。戦後は逆に工業力を付けつつあるが、敗戦でコンプレックス「に陥っている。この「歴史の研究」のような本が読まれると、コンプレックスの克服に良薬になるのいではないだろうか」・・・・松永はこの6000ページに及ぶ原書を翻訳させて日本で出版することを思い立ったのだ。フランスでも翻訳しようという話があったのだが、あまりの大著に関係者が断念したほどだった。邦訳にして全25巻に及ぶもので、もちろんソロバンには会わない。

昭和29年(1954年)ロンドンを訪れた松永は、英国外務省の所有する由緒ある建物の「チャタムハウス」でトインビーと会った。松永は鈴木と話したことを思い出しながら、所見を述べた。


これからの世界文化は、アメリカの物質主義的なデモクラシーやソ連の共産主義より、東洋の哲理が必要ではないでしょうか
トインビーは答える。
たしかに、西洋のキリスト教は戦闘的で寛容さを欠くから、方々で問題を起こしています
日本について、松永は反省する。
日本は指導者たちが一方的に傾いて、冷静かつ科学的に物事を考える能力がないのが残念です
それは、世界中どこでも同じではないでしょうか

トインビーの言葉に二人して笑った。トインビーは第二次世界大戦に向かった日本にむしろ同情的あった。

お国の軍国主義は、西洋の圧迫に負けないために取ったものだと考えます。あれは犯罪ではなく、悲劇の始まりでした。ドイツの軍国主義の行方をもっと冷静に見つめるべきだったのです。

二人はときの経つのも忘れて語り合った。トインビーは最後に自著の邦訳刊行を喜んで承諾した。日本にも来てほしいという松永の要請に、今すぐは無理だが、二、三年のうちに是非とも行きたいと答えた(
1956年に訪日


帰国した松永は翻訳陣を整え、ライフワークとも言うべき作業に取りかかる。邦訳が完成して出版となったのは、昭和41年(1966年)4月である。その刊行の辞を書くため、松永はオスヴァルト・シュペングラー「西洋の没落」を原書で読み、赤や青の線で一杯にした。トインビーの「歴史の研究」が「西洋の没落」の影響を強く受けていることを知っていたからだ。このとき、松永92歳。驚くべき頭脳とエネルギーである。出来上がった大著を横にして、松永は周囲の者に力説した。
「日本人はいかにも視野が狭い。そのためにあんな戦争を始めて負けてしまったんだ。これからの日本人は広い視野に立たねばならない。それには、この「歴史の研究」を読ませるのが一番だね」

:「歴史の研究」壱岐郡郷ノ浦町立図書館への寄贈は昭和45年9月17日である。
(情報源:爽やかなる熱情・水木揚著・日本経済新聞社、ページ342−344)