松下幸之助、本田宗一郎、井深大。社名を挙げなくてもよくご存知の名経営者である。
 では、松永安左エ門は?

 戦前、戦後を通じ「電力王」の名声をほしいままにした電力業界の“ドン”だ。 昭和初期、軍部や革新官僚らが唱える電力統制論に真っ先に反対し、敗戦直後の電力再編論議では全国の発送電部門を独占していた国営の電力会社をたった一人で分解、今日に至る9電力体制(沖縄電力を除く)を築き上げた人物である。 この正月休み、雑誌編集者に勧められ、松永を主人公にした『爽やかなる熱情』(水木楊氏著、日本経済新聞社)

というノンフィクションを読んだ。読後感は爽快。示唆に富んだ内容なので、さわりを紹介する。
 松永は業界内では「電力王」、しかし民衆からは「電力の鬼」と呼ばれた。何故か。 9電力体制が発足した直後の1951年5月。電力各社は、経済復興で見込まれる膨大な電力需要に対応すべく、3年間で計7割もの料金値上げを決定、増収分を設備投資の費用に充てようとした。
 
この大幅な料金値上げを強引に主導したのが、公益事業委員会のトップとして電力業界を監督する立場にあった松永で、民衆の怒りの矛先は、当然のことながら仕掛け人の松永に向かった。「電力の鬼を殺せ」と。 が、結果としてこの大幅値上げは妥当だった。電力需要は、松永が予想した以上の伸びを示し、各地で進められた大規模電源(発電所)開発が旺盛な電力需要を賄ったのである。

 このように松永は、こうと決めたら一直線に突き進む行動力の持ち主だったが、単なる猪突猛進タイプではなかった。 エネルギー政策が水力中心の「水主火従」の時代に火力発電の推進を唱え、原子力にもいち早く着目。電力以外の分野でも早くから国鉄やタバコ、塩の民営化、東京−名古屋間の高速道路建設などを提唱、先見性にも優れた人物だったという。

 翻って現在。日本は、1990年代のダメージから立ち直れず、いまだ混迷の真っ直中にある。しかし、「残念ながらいまの世には、確信を持って将来計画を明らかにし、どのような反対があっても正しいと信じれば突き進んでいくだけの度胸と力量を持つ者がいない」 筆者のこの指摘は、「残念ながら」正しい。

(経済ジャーナリスト 河原雄三)