「歴史の研究」の翻訳出版権を獲得する
もともと安左エ門が「歴史の研究」を知ったのは、仏教学者というより「禅」の著者で、日本よりも外国で有名な鈴木大拙博士と親しくなったからである。安左エ門と同郷壱岐の出身で、京都建仁寺管長となった竹田黙雷のところへ、若い頃に短気を直すため安左エ門は参禅したことがあった。

黙雷という人は大変優れた人で、明治の元勲伊藤博文、河野広中、大石正巳、床次竹次郎等の政界人、三浦観樹、鳥尾将軍等の軍人、一灯園の西田天香、東武鉄道の創立者根津嘉一郎、鈴木大拙等と多くの信者がいた。

安左エ門と同郷の大浦貫道も黙雷の門を叩いた一人であるが、この人が晩年「黙雷禅師遺芳」を著わし老欅莊を訪れたとき、いろいろな話を交える中に安左エ門は語っている。「わしはひねくれ者で物おじしない人間じゃが、世の中に三人怖い人間がいた。それは祖父福沢先生、それに黙雷和尚じゃよ」その黙雷と親しかった鈴木大拙博士が、戦後鎌倉に住んでおり、安左エ門の小田原と住まいが近いので、親しく往き来をしていた。

茶道は禅に通じるところがあるので、度々会っているうちに鈴木博士に、アーノルド・トインビーという英国人の書いた「歴史の研究」はこれからの日本人にとって必要な本である、と教えられたのである。「日本人は頭でっかちで、世界的に物を見るというところが欠けている。”歴史の研究”を広く日本人に読ませることが一番の良薬だ」鈴木のこの言葉で、安左エ門は何とかしてこの本を出版できたらと考えたのである。

原書で6000ページに及ぶという膨大な著書なので、フランスでも出版されたが、途中で出版社が投げ出してしまったそうだ。・・・・帰国後安左エ門は独力で「歴史の研究刊行会」を設け、四十一年四月五日日本語版の第一巻を刊行した。・・・「歴史の研究」日本語版の刊行は安左エ門が日本文化に寄与した大きな遺産の一つであり、日本翻訳史上に残る偉大なる壮挙であった。

情報源:竹田黙雷和尚(壱岐の100年から)
竹田黙雷(勝本町)安政元年(1854)~昭和5年(1930)。黙雷禅師は、安政元年7月3日、壱岐郡香椎村(現在の勝本町西戸触774番地)の生まれで、本姓は竹田氏、父は平戸藩士勝治、母は川上氏、五男二女で師は四男、幼名は熊雄、7歳の時、石田村(現石田町)の太陽庵(今は廃寺となり、同村の寿慶院に統合)良堂和尚によって、祝髪し宗熊と名付けられた。10歳の時、太陽庵ちょり池田の正田庵に移り、安国寺の洪堂、国分寺の秀岳二師につき、詩文、内外の典籍の講義を受けて14歳の時、秀岳和尚が観音寺に遷られ、これより秀岳和尚の徒弟となり宗上尤と改名。長年の修業ののち京都の建仁寺管長に推挙された。昭和5年、77歳で死去。(提供:壱岐郷土館