それぞれの国にはそれぞれの国の歴史がある・・・あちらさんの神も人も、こちらさんの神仏も、人も想いは皆同じ・・・・。駐日モンゴル大使館

第十章   他人の家の窓を通さずに自分の目で見た日本

第IV部    心に暖かい郷、日本人


モンゴル兵の魂と壱岐島の発展
 ある日、壱岐出身の方がモンゴル大使館を訪れて、「私たちの島の発展が停滞しているのは、非常に心苦しいことである」という話をされました。壱岐島は昔から大陸と日本との間で交流あるいは戦闘の舞台となった場所に位置する島です。歴史のさまざまな時期の亡骸なきがらがそこにはあります。

 「日本の習慣によってそこで命を失った日本の人たちの魂を慰めることはできる。しかし、そこに眠るモンゴル人の魂を慰霊することは私たちにはできない。モンゴルからお坊さんを呼んで慰霊の儀式をすることができないだろうか」と依頼されました。その依頼を受けてモンゴルのガンダン寺の大僧正であるチョイジャムツ法師を代表とする僧侶の代表団が壱岐島を訪れて慰霊の儀式に参加しました。

 フビライ・ハーンのモンゴル襲来の第一回目のときにモンゴル軍の犠牲者は一万三千人にのぽったという歴史資料があります。二回目の襲来である一二八一年の弘安の役では台風によって四千隻の船が沈み十三万人の犠牲者が出たという情報もあります。もしこれだけ多くの亡くなった人の魂が影響しているとするなら、それは壱岐島だけではなく九州全域にも影響があると思う人がいても不思議ではありません。

 二〇〇三年に行なわれた慰霊の儀式は、太陽の輝く晴天の日に草の上で、まさにモンゴルにいるのと同じような状況で祈りが捧げられました。もしモンゴルの兵士の魂まで届いているならば、それが慰められるということが信じられるような素晴らしい儀式でありました。

 私は壱岐島は今後発展するということを確信しています。その慰霊祭の祈りは直接の影響を及ぼさないかもしれませんが、このように島のために心を痛め発展を心から考え行動する人がいるということは島の発展に影響しないことはないと信じます。

モンゴルの襲来は日本人の心に影を落としたか
 フビライ・ハーンのモンゴル襲来は日本人の心に何らかの影を落としたのかどうかを私は考えていました。九州の人はモンゴル人に対して比較的冷たいかもしれないということを九州出身の国会議員に聞いたことがあります。しかし私には、モンゴル襲来が九州の人であれ他の地域の人であれ、日本人の心に影を残したということを意識するような経験は一度もありませんでした。

 壱岐島で行なわれた慰霊祭は、かつて亡くなった兵士の魂を慰めるのみならず、現在生きている人たちの心の平安のためにも行なわれたと考えます。今後モンゴルと日本の人々の間の相互信頼を強化するためには、このような儀式以外でも具体的な活動を、例えばビジネス文化-経済人的交流などを強めていくことが必要であると思います。

七百年以上前のモンゴル襲来は九州や日本の人たちに別なものを残したように私には思われました。それは心の影ではなく、心の光と名づけてもいいものではないかと私には感じられます。日本人はモンゴル襲来より以前から中国や朝鮮半島と交流を持っており、それを通じて大陸の文化が日本にも入ってきていました。それはゆっくりと徐々に染み込んでくるような形での接触であり、文化の浸透であったと理解できます。儒教・仏教・漢字などが次第に日本に入ってきたことについて別な章で述べました。

 モンゴルの襲来は、国内の争乱以外に外国からの危機が存在することを初めて日本人に知らしめた出来事であつたと言えます。イタリアからの使者はモンゴルの襲来から三百年後に日本に現れました。その意味でフビライ.ハーンのモンゴル襲来は大陸に中国や朝鮮以外の国があることを知らしめたのみならず、日本に外へ目を開くことを迫るような衝撃を与えたという歴史的な意味があったと言えます。

両国交流に命を捧げたモンゴル大使
 鎌倉にかつてのモンゴルの使者の墓があるということは以前から聞いていました。七百年前のフビライ.ハーン時代のモンゴルの使者を祀った記念碑などは現在のモンゴルにもありません。モンゴルがら日本に来た始めてのモンゴル人ではなかったにしても、フビライ・ハーンの国書を持って日本の天皇に謁見すぺく派遣された、軍人ではない使節団であり、それがこの地で命を失ったという意昧で敬意を表するべきであると思い、訪ねることにしました。

 藤沢市の常立寺(じようりゅうじ)と呼ばれるそのお寺の住職のお世話になり、二〇〇四年九月七日にその地を訪問したのです。その訪問は決して盛大に行なわれたわけではなく、日本からは駐モンゴル日本国前大使を務められた花田麿公氏と、紹介してくださった都竹武年雄さん、そしてモンゴル大使館の外交官数名が参加しただけでした。いくつかの新聞が関心を持って報道し、またその日のNHKテレビで放映されたところを見ると、日本の報道機関も鋭敏にこの問題を捉えてくれたと思います。

 使節団は僧侶ではなく官吏であり、私たちは宗教的な行事として祈りを捧げるのではなく、敬意を表ずために行なったと言えます。これを定例化し、毎年九月七日にモンゴル大使が常立寺を訪問するということを話してきました。これはモンゴル政府が政治的に行なう行事ではなく、人道的な行為であると理解していただいて結構です。

 それでも私の行なった所作は日本では慰霊の墓参りとされるようです。もし人に魂というものがあるならば、遺体を納め墓を守り記念碑を建てた当地の人々にも、その魂の慰霊が良い影響を与えるものであってほしいと思います。私たちはその墓碑の前にモンゴルから持ってきたハダク(聖なる青布)を納めた、香を焚き、モンゴルの大地にあった水晶のかけらを捧げました。

私を驚かせたのは七百年間にわたりその墓碑を守り続けてきた日本人の心です。死者の魂を恐れたのか、それとも儀礼的なものであったのか、あるいは日本人の中にそのような文化が備わっていたのかもしれません。そのどれであるかはわからないし、どの理由であってもいいと思うのです。刑死する前に使節団長が述べた以下のような辞世が書き止められて今に残されています。

出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰
来時億侃黄金印 莫見蘇秦不下機


 当時の日本人の文字や書に対する文化、教養の高さを示していると思います。辞世の詩は色々な解釈がされているようですが、私はそれを自分なりに以下のように解釈してみました。

 使者は二つのことを残念に思っています。ひとつ目は、持ってきた金印を皇帝に返却することができなくなったこと、二つ目は、国を出るときに寒い冬が迫っていたので帰るときには冬の暖かい服を持って家族に会おうと思っていたのが、叶わなくなったことです。

 モンゴル人は二つのことを言うときには、必ず三つ目として何かを言うものです。もしかしたら三つ目の何かを言ったのかもしれませんし、それを研究すれば面自いでしょう。この二つの句を見ただけでも、ひとつは国の使者として、もうひとつは父として、人間にとって重要な二つのことを述べているのがわかります。

 国の官吏であり、ひとりの父親であったこの人物に対し、モンゴルの大使として敬意を表することが必要であると私は思いました。実はこの記念碑に公式に敬意を表したのは私が初めてではありません。モンゴルからの使節が日本を訪問した六百五十周年を記念して、一九二六年にこのお寺で記念式典が催されました。この式典に参列した当時の外務省の木村栄一アジア局長は演説の中で、モンゴルの襲来は日本にとって「国内の闘争より対外関係の重大なことを自覚」させ、これら使節の死が「日本の国際的地位向上の第一の転換期を作ったと云う点から、日本と世界の歴史上、重大なる意味を有する」と評価し、「此の意昧に於て、私は六百五十年前に異境の地に於て忠節に殉じたる使節の英魂を慰むることができると信じます」と演説を締めくくっています。

 私たちはこの使節の碑に敬意を表する際、日本に碑を残したモンゴルの初めての使者であることに留まらず、モンゴルと日本の間に交流を確立する偉業のために命を捧げた人々であったことを考慮したのです。・・・・・・・・・・・・・・略

☆The Intervew With GOD(S)

高野山管長「真言密教」を語る

☆モンゴル国・5元使を弔う常立寺

常立寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E5%AF%BA

写真で見る駐日大使館・閣下等のご活躍!

ガンダン寺副館長・入江代表世話人・高野山蓮花院大阿闍梨東山大僧正

一支国ルネッサンスにて