東京雪州会初代会長、三富道臣氏の長男(本名:義臣) 壹岐石田郡村要覧 出会いの旅 『私説 三富朽葉伝=くちは』誕生まで 勝野良一 悲劇の詩人・三富朽葉(郷ノ浦町) 明治22年(1889)〜大正6年(1917)。 早稲田大学英文科卒業、詩人。壱岐郡の出身。本名・義臣。明治42年、人見東 明らと自由詩社を結成 。機関誌「自然と印象」を創刊。すぐれた口語散文詩を発表し、フランス象徴派 詩人の研究や翻訳も書き、また、「早稲田文学」に詩やエッセイなどを寄せた。 将来を期待されながら犬吠崎で遊泳中に溺死。 20代の若さだった。(提供:壱岐郷土館) 私が三富朽葉の名を知り、初めてその詩に接したのは二十歳前後の頃、おそらく新潮社版『現代詩人全集』第六巻によったものと思うが、確たる記憶はない。しかし当時「四季」の透明な打情詩を耽読していた私の感性が、色彩感に富み、熱を病む眼で見る風景のようなデフォルメを帯びた詩から受けた印象は、今も反鯛することができる。(中略)私もよく熱を病む少年であった。これは一九九四年出版の『海の声彼方の声-評伝三富朽葉』の序章の一節である。思えば長い愛慕の対象であったといえよう。むろん移り気な私の関心は幾つかの対象のあいだを行き来しはしたが、その間にも払拭し切れぬシミのような影が私の脳裏から消えることはなかった、三富朽葉という影が。 千葉県犬吠埼にあると聞く円涙痕之碑』(建立者は父君である三富署洲氏)は幾度か私の夜の夢に現れたものである。旅のつれづれにその碑を訪ねたことが、忘れられつつある詩人の評伝制作のきっかけとなった。一九九〇年のことである。千葉への旅はおのずと詩人の生地壱岐行に連なってゆく。《玄海の夢の浮島》は朽葉抜きでも十分に私を魅惑したが、幾つもの嬉しい出会いの数々が、長年の愛慕の詩人をさらに頽郁としたイメージで彩った。壱岐郷土館長(当時)横山順氏、山之守酒造社長(当時)山内俊行氏(故人)、壱岐交通の定期観光バスガイド呼子富美嬢:・詩人の父君三富道臣氏(雪洲会初代会長)の手になる『壱岐石田郡村要覧』は郷土館にあった。かくて朽葉評伝は成ったのである。 出会いは続く。ある日、富山大学の私の研究室に一通の葉書が舞い込ん.だ。葉書の主は東京雪洲会副会長(当時)後藤圀丸氏、未知の人である。無類の郷土愛の持ち主との今に至る交誼の始まりであった。評伝は好意的に迎えられたが、私には満たされぬ思いが残った。詩人を主人公とする小説こそ、詩人と私とを有機的に結びつけるものであるとの思い入れが、私を捉えていた。私は後藤氏と約束を交わした、三富親子の姿を小説に書きますと。三度目の壱岐行は必然であった。折りしも春の彼岸であった。新たな出会いが待ち構えていた。民宿《しげ井》にくつろいでいた私を一人の婦人が堀爽と訪ねて来られた。後藤圀丸氏の意を受け横浜から駆けつけた東京雪洲会評議員椎名伸子夫人であった。 夫人の実家に招かれた私は、母君馬場知加さん(一年前に物故された由、合掌)の暖かいおもてなしを受け、しかもその場で望外の幸運に浴することとなった。三富朽葉を知る人にとっては垂睡の的である祇紗、朽葉葬儀の際、三富家が会葬者に配布した朽葉一九歳の詠、「潮はやき海の底にもかくれ入り君のがれんと泣けぱ泣かれて」を友人の才媛長谷川時雨女史が揮竈した欲紗を眼にすることができたのである。鶴田家泌蔵の祇紗は母君の友人鶴田夫人の御好意により私の眼前にあった:・馬場、鶴田両夫人の語る、朽葉養母三富也衛夫人のポートレートはきわめて示唆的であり、臨場感に富んだものであった。それらは私だけに分かるように今回の作品のなかにひそかに描かれている。さらに椎名夫人のご紹介により、竜蔵寺に植村地恵香夫人を訪ね、有意義なひとときを過ごした。夫君高義氏とともに壱岐教育界に尽くされた夫人は、詩人の戸籍上の姪に当たられる方であり、三富家に伝わる槌話を惜しげもなく披露してくださつた。これは若干形を変えて第二章と第十章を飾ることとなった。 ざらに主なき三富家を守っておられる太田秀嶺氏宅にお邪魔し、詩人にまつわる貴重な資料を拝見し、幾つかを複写していただいた。三日目、だらしなくも私は宿で発熱のため寝込んでいた。来訪者があった。伸子さんのかっての師中上史行氏である。氏は前年『壱岐の風土と歴史』と題する名著を公にしておられた。途中横山順民も加わった対話は、おのずと壱岐と言う土地のありようを深部から語る場となった。両氏の御承諾を得てテープに収めたが、そのテープのお声が、私の耳にした中上氏の最後のものとなるとは神ならぬ身の知るべくもないことであった。中上氏は翌年帰らぬ人となられた。周知の通り民は、壱岐漁業界の先駆者中上長平翁の血を引く人である。 驚くべき読書量と透徹した史観の持ち主を、哀悼する言葉を私は知らない:・国津神杜宮司馬場忠裕氏には残念ながら面識の機会がなかったが、しぱしば電話にて貴重な御教示に賜った。夫人が私の郷里三重県生まれとのこと、奇しきゆかりといえよう。ここでしばらく壱岐を離れよう。三富朽葉が学んだ中学は、フランス人の経営になる暁星中学である。優れた人材を世に送り出してきた名門であり、当今はサッカーでも名を馳せていることは御承知の通りである。東京大学南欧文学科教授長神悟氏は、私の所属するイタリア学会において知遇を得た学究であり、暁星を母校とする人である。 一九九九年、評伝制作のため、長神氏の同道を得て暁星学園を訪ねた私は、深堀英二理事長(当時)と面談し、深堀氏の御好意により門外不出の成績簿の閲覧を許されたのである。かくて三富義臣(朽葉)の秀才ぶりを目の当たりにすることができたのであった。また詩人の最終修了小学校が従来伝えられてきた富士見小学校ではなく、壱岐の武生水小学校であるとする壱岐在住の朽葉研究家山川鳴風氏(故人)説の正Lさを確認できたのである。また第三章の語り手イポリット・ゴージェ師は詩人が終生愛慕した教師であるが、その詳しい経歴は深堀氏より送られた仏文の伝記のなかにあった。 東京の昭和女子大学は詩人の先輩格の人見東明氏の創設になる大学であり、同氏の名は、音楽会場としておなじみの《人見記念講堂〉〉に残されている。氏は明治大正の貴重な文学上の文献の収集家としても知られ、そのことごとくは同大学の《近代文庫》に収められている。部外者の私が《近代文庫》を利用できたのは、ひとえに同大学教授杉本邦子女史の御配慮によるものであった。周知のように女史は牧神杜版三富朽葉全集の監修者の一人であり、東明氏の薫陶を受けられた、・卓越した近代詩の研究家である。 東北大学の佐藤伸宏教授は日本近代詩の分野では令名高い人士であり、フランス象徴詩にも並々ならぬ造詣の持ち主である。今回の作品製作中、しばしば氏に書簡を寄せ、忌揮のない意見を仰いだ。氏の辛口のコメントはとかく安易に流れがちな私の筆を何度軌道修正してくれたことか、箱根塔之沢の福住楼は詩人が高木しろ子を見初めた温泉宿である。長谷川時雨女史の名著『近代美人伝』所収の『福住楼の女将』は初代の女将の面影を伝えて間然するところがないが、現在入手はほぽ絶望的である。現女将沢村みどりさんより、そのコピーが送られた時の喜びは忘れられない。 作者は昨年一九九九年秋、一応の完結を見た。後藤氏との約束から五年の歳月が流れていた。その間二度の入院、定年退官など厄介な私事の数々長く辛い歳月であった。そうした私を励ましてくださったのは、後藤圀丸氏であり、中上史行氏夫人章代さんであった。かくて『私説三富朽葉伝』は終わり、私は新たな旅立ちをしなければならない。新たな旅はどのような出会いを用意しているだろうか。 二〇〇〇年五月吉日 情報源:近代文藝社:第一刷=1994.1.30. 第二刷=1995.3.30. 価格:3000円 三富朽葉邸 |