第一章 壱岐 揺藍の島
 『魏志倭人傳』は対馬の記述に続いて、「又南渡一海千餘、名日瀚海、至一大國、官亦日卑狗、副日卑奴狗母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶長不足食、亦南北市耀。(さらに南に向かって瀚海なる海を千里余り行くと、一大国すなわち一支国に着く。そこでも対馬と同じく長官は卑狗、副長官は卑奴母離ひなもりと呼ばれている。面積は三百里四方ほどで、竹林や叢林が多く、家屋は三千ほど、田畑はあるにはあるが、耕しても自給自足は難く、人びとは南へ北へと海を渡って食料を購っている。)」と語る。壱岐の史書への初登場である。

 ついで六四二年、新羅使節船の寄港を『日本書記』が伝え、爾後同書を初め『績日本紀』『日本後紀』などに壱岐の名がしばしば見えるようになる。九州と大陸とを結ぶ交通路に位置していることから当然であり、それは降って六世紀の文永・弘安の役の悲劇へと連動してゆくのである。萬葉の歌枕としては、聖武天皇の七三六年、遣新羅使一行の寄島に際し、随員の一人で壱岐人の祖先をもつ神祇官雪連宅満が、

"大君の命かしこみ大船のいきのまにまに宿りするかも"

の一首を遺して病没し、さらに仲間の数名が彼を悼んだ挽歌九首を手向けている。
その一首に、

"新羅へか家にか蹄る壹岐の島行かむたどきも思ひかねつも"

 とある。その壱岐の地勢であるが、一八九四年(明治二十七年)、『壹岐石田郡村要覧』にじつに巧みにまとめられている。壱岐石田郡長の任にあった
三富道臣が著わした

 壹岐國ハ肥前ノ國ノ北二位シ肥前國呼子ト相距ル七里山小ニシテ水細ク稽平坦ナリ東西三里拾載丁南北四里六町周廻三拾五里拾六町全島ヲ分チテ壼岐石田ノニ郡トス壹岐郡ハ島ノ北部ニシテ石田郡ト相背キ東ヨリ北西ノ三方海二面シ八幡、芦邊、瀬戸、勝本、湯野本ノ五港ヲ有ス魚釣山東岸二時チ本宮山西方二從耳へ谷江川東南二流レ海二入ル郡内所々古窟アリ盤石ヲ以テ構造ス土俗構シテ鬼ノ岩屋ト云フ蓋シ上古土人ノ穴居セシ虚力或ハ墳墓ノ類ナラン北面二勝本港アリ往古風本ト稻ス市街櫛比封馬二航スル要津ニシテ三小島整列シテ港ロヲ衛ルカ如シ石田郡ハ島ノ南部ニシテ北方壼岐郡ト界シ東ヨリ南西ノ三方海二面シ印通寺、初瀬、癖野浦、渡良ノ四港ヲ有ス嶽ノ嶺南方二屹立シ武生水、初山、志原ノ三村二綿亙ス武生水村ハ東方二開ケ南岸二郷野浦アリ巫一戸二航スル要津トス初瀬港ハ南端二斗出シ東西航通船ノ寄泊二便セリ

 『壹岐石田郡村要覧』は時の長崎県知事大森鍾一に献呈されたもので、まず壱岐全史を神話時代から説き起こし、一八八九年(明治二十二年)の町村制実施までを巧みにレジュメし、ついで総覧として全島の姿を人口、産業、人情風俗などすべての部門に亙ってカバーし、
最後に壱岐郡五村と石田郡七村についてその沿革から当時に至るまでを、詳細をきわめたデーターで整然とまとめあげている。

 和漢学で培われた学識に加えるに「鎭西日報」の主筆として鍛えたジャーナリストの才腕が行き届いた白眉の一冊というべく、また当時の壱岐を伝える資料の乏しい状況下で、まことに貴重な文献であるとともに、
明治の壱岐行政史上の劃期的な事業として記念されるべきものであろう

 このように壱岐は佐賀県呼子から北に二十六キロメートル、(博多からは北西に七十六キロメートル)、姉妹島と島民の呼ぶ対馬とともに玄海灘に浮かぶ亀状の島で、わずかに南北に長く、全周は百三十九キロメートル、「山小ニシテ水細ク稽巫一坦ナリ」とあるように、対馬とは対照的に山は低く、最高でも岳ノ辻の二百十三メートルに過ぎない。しかし海岸線はアクセントに富み、大小の入江が複雑に入り組み、それゆえ往時より人びとは島内の往来にも専ら舟を用い、彼らにとって海こそ街道との認識は日常的事実として、ほとんど生理的必然として育まれていったのである。たとえば渡良の住民は郷ノ浦に出るのに、荒天時でもない限り陸路をとることはまずなく、大抵は舟に頼ったといわれ、これは現在にも及んでいるようだ。かかる意識は当然外洋にも敷術され、幕末期の島民の間で「おせきなさるな丹五郎さん海は街道で通り船」との俗謡がもてはやされたという。岳ノ辻の物見番久間丹五郎が、沖合に異国船とおぼしき船影を認めると、その都度城代に注進に及んだあたふたとした格好を椰捻したもので、海は世界万民にとって共有の街道と、おおらかに構えた島民とお役目大事の小役人の管見とが、鮮やかな対比をなしたエピソードであり、島国根性とはおよそ対極にあるこうした認識は、海そのものとともに、私たちの詩人の形成に少なからず与るであろう。

壱岐島が壱岐.石田の二郡に分かれたのは遠く律令時代に遡る。『壹岐名勝圖誌』の伝えるところによると、天平元年に当る七二九年にこの二郡の境を定めたとある。爾後一八九六年(明治二十九年)、二郡を合わせて長崎県壱岐郡となるまで続くのである。しかし壱岐人にとっての問題は、地理的には佐賀県に近く、交通路から見て福岡県と密接に結びついているにもかかわらず、平戸松浦氏との長いしがらみから、幕藩体制崩壊後も、当然のこととしてほぼ自動的に長崎県に編入され、現在に至っていることにある。

宮本常一は『日本の離島』で、明治に入ってからのこの島々(壱岐と対馬を指す。勝野註)の最大の不幸は長崎県に属したということであった。交通の上からも経済的にも博多へ最も強く結びついているにもかかわらず長崎県についている。壱岐、対馬と長崎の経済的関係は非常にうすい。壱岐、対馬の者が長崎へ行くには一度博多へ出て汽車で行かねばならぬ。長崎から壱岐、対馬へいく場合はその逆になる。こういう不便な状態を明治以来くり返しつつ今もって壱岐、対馬は福岡県へつけないのである。飛地の故に蒙っている損失は実に大きい。と述べている。この条りは主として漁業問題を論じた部分であるが、経済、文化など島民の生活全般に関する切実な問題であり、じじつ私も壱岐滞在中、一度ならず県への怨みの声を聞く機会があった。二、三十年ごとに転県運動が起こるゆえんである。

話は一八八九年(明治二十二年)のことになる。三十三回目の誕生日を明日に控えた第五代壱岐石田郡長三富道臣は、夏の休暇の数日を勝本浦で過ごしていた。二年前に郡長を拝命し東京生まれの夫人マツを伴って帰郷した彼は、長らく渡良村の官選戸長を奉じた地元の有力者三富安代の次男、国幣中社住吉神社付属の小教院に学び、弱冠二十二歳で長崎市内の小学校長を勤め、翌年「東京與論新誌」を発刊、ついで長崎の「鎭西日報」の主筆となり、さらに二十六歳の時、長崎県議会議員に当選するも二年後に辞して上京、元老院議官丸山作樂の「明治新聞」の編集長として才筆を揮っていたという
壱岐人としてエリート中のエリートである。

(なお道臣の父安代は石田郡黒崎村平田家の出、渡良村の三富和泉の三女美禰と婚姻、同家に入った人である)。この日道臣のいた勝本浦が文永・弘安の役に際し、元軍侵攻の矢面に立ったことは、位置から推して当然であり、守護代平景隆を祀る新城神社に往時を偲ぶことができる。背後の城山からは名鳥島、若宮島、辰ノ島の三島が望まれ、壱岐全島のなかでも屈指の景観に富む海岸である。

しかしながらその日の道臣には何物も眼に入らず、ただただ武生水(むしようず)の官舎に臨月の身を横たえる夫人マツと生まれてくる子供のことで頭が一杯であったはずだ。マツは通称松枝子と呼ばれ、東京永田町の石井熊次郎の長女、目鼻立ちの整った美人であった。四歳の息子と一緒に長崎市内で撮ったとされる写真にその面影を見ることができる。道臣の赴任に従って初めて壱岐の土を踏んで二年、二十五歳の東京育ちの彼女にとつて島での日常は淋しく心細く、そのうえ分家とはいえ名門三富家の妻女としての気苦労も多かったにちがいない。しかも初産を控えているのである。道臣のことさらの勝本行も苛立つ心を紛らすためと見るのも、あながち穿ち過ぎとはいえないだろう。要するにじっとしていられなかったのだ。その日は海中にあって泳ぎを楽しんだ由だが、心はそぞろであったにちがいない。じじつ後年、次のように書くのである。

思ひ起せば、當時私は四里餘を隔て>ゐる勝本浦といふ虞に避暑してゐた。急使が妻安産の報を齋して來た時は、丁度海中にあつて水浴をしてゐたが、匆惶として馬に飛び乗り、帰宅したのである。之を今囘の出來事と照して見ると、そこに何か因縁があるやうにも思はれる。

『父の回想』と題されたこの文章の語る「因縁」は、まだ二十七年先の話である。私たちはこの日、長崎県壱岐郡武生水村四十番戸にこの評伝の主人公朽葉三富義臣が吸々の声を挙げたことだけを、今は記憶に留めておけばよい。しかし『父の回想』はそのあとすぐに、「彼が生れて蒲柳の質、能く成長に堪へるか否かは我人共に疑ふ所であつた」と続くのである。父母をはじめ周囲の愛情を一身に集めた子女によくあるパターンとでもいえようか。そのうえしばしば貧血と歯痛に悩まされたことが知られている。義臣はこの島で七歳まで過ごすのであるが、彼のこうした生理的様態を思うとき、私たちの前にひとりの少年のイメージが浮かびあがってくるはずである。・・・・・・・・・。