山口 麻太郎翁著
石田村印通寺浦の出身で朝鮮で大農場を経営する熊本利平氏は、郷土の振興をはかるには教育を盛んにして人材を養成しなければならないと考え、まず郷土の教育を良くすることに力を尽くそうと考えた。学校は校長に人を得ることが先決問題と考え、一般の学校長が五十円程度の俸給であったところに、熊本利平氏は出身地石田村の石田小学校の校長給を月百円として自分で寄付し、郡視学の川崎常治氏(五島出身)を迎えた。また当時としてはこの田舎には珍しい立派な講堂を石田小学校に寄付した。
熊本氏は又壱岐の教育振興についての念願をもって沢柳政太郎氏に相談を持ちこまれた。沢柳氏といえば文学博士で東京帝大総長貴族院議員、文部次官、帝国教育会長を歴任した日本最高の教育専門家である。当時は私立成城学園の創設に大きな理想をかけておられたのである。その沢柳氏に嘱望されて成城学園の経営に当たっていた全人教育論者の鯵坂国芳氏(後養子となって一時小原姓を名乗る)があった。大正十年八月教育雑誌「教育学術界」社は、東京高等師範の大講堂で「八大教育講習会」を開催した。 講師の顔ぶれは
一、動的教育論(明石師範付属小主事笈川平治)
二、創造教育論(早大教授稲毛金七)
三、一切衝動悉皆満足教育(広島師範付属小主事千葉命吉)
四、文芸教育論(早大教授片山伸)
五、自学教育論(樋口長市)
六、自動教育論8日本女子大付属生主事河野 清丸)
七、自由教育論(千葉師範付属小主事手塚岩衛)
八、全人教育論(成城小主事旧姓鯵坂小原国芳)
小原氏はこの新教育の実際家八大教育を肯定しながらも「八という数字に拘泥し過ぎているようだ」 云って、左記二人を加えてほしかったといっている。即ち奈良の木下武次、お茶の水の北沢種市の両氏である。このころ日本の教育は大飛躍をして、これらの新しい教育学説を生み、この学説を実践して顕著な成績を示していた人達である。
熊本氏の強い要望に対して沢柳博士が推薦されたのはこの中の全人教育の小原国芳(鯵坂)氏であった。小原氏はこれらの新教育に反対する人々として、東京帝大吉田熊治博士、東京高師付属小佐々木吉三郎の二氏をあげ、このほかに文部省、府県の師範学校長と自伝の中に記している。以上の事実でも分かるように、成城小の小原氏は全人教育説を以って当時の日本の新教育の八本乃至十本の柱一本として認められていたことが分かる。
沢柳博士は熊本氏の 請いに対してこの小原国芳氏を推薦されたのであった。小原氏がいつから実際に壱岐の教育に手をかけたのであったかは分からぬが大正十年からではなかったかと思う。壱岐の講演から急いで帰って八大教育講演会場に臨んだと書いてある。1
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