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熊本氏の熱意による壱岐教育振興策としての第一回の夏季講習会は、大正十年八月盈科小学校において開催された。経費は無論全部熊本氏が寄付されたものである。この講習会の内容は次の通りであった。 一、教育の根本問題としての哲学、道徳、芸術、宗教(鯵坂国芳) 二、教育、教授の改造(奥野庄太郎) 三、極東人種概論(鳥居竜蔵) 自八月六日至十日 十一年にも十二年にも夏季講習会はあった筈だと思うけれどよく分らぬ。大正十二年には熊本利平氏に招かれて、沢柳政太郎博士が来島された。壱岐郡教職員のために田川小学校で講演会が開催された。浦川伊助氏の「壱岐教育の推移」によれば、その講演の一節に、この壱岐は島でまとまりもよし、文盲をなくする運動をされてはどうであろうか。と云われたと記してある。熊本氏に依頼されて壱岐教育の実態を見ると同時に、壱岐の教師達に新教育の方向をはっきりさせて、新教育運動に自信と勇気をつけようとするものではなかったかと思う。大正十三年には次のような夏季講習会が行なわれた。 一、現代教育思潮の根本問題(広島高師教授長田新)自八月一日至五日 二、欧米対象国語教育の実際(成城小訓導奥野庄太郎) 自八月六日至八月十日 この年新教育ダルトンプランの主唱者パーカスト女史が来朝した。東京で講演会があるというので、本郡の小学校長全員ははるばる上京してその講演を聞いた。どんな有益な講演会であるとしても全校長がこぞって東京までこれを聞きにいくということは、なみなみならぬ熱意であったと思うのである。明治の新しい日本の教育がひと通りいき渡って、さらに一層の高度の教育を願望するに至っていたわけであろう。 その際校長一同は沢柳博士邸を訪問して、同女史の日本巡遊の日程に壱岐を加えて、壱岐にもぜひ立ち寄って見てもらうよう、その斡旋方を懇願した。その年の四月本田清信氏は盈科小学校に転じていた主席には山口一行氏がいた。本田校長はかねがね雑誌「児童大学」によって、ダルトンプランがすぐれた教育説であることを知っていたので、盈小の教育にこれを実践して見たいと考え、教頭並びに全教師とも協議の上、いよいよ実践にふみきっていたのでえある。 直接パーカスト女史の指導を受けることは念願やまざるものがあったにちがいない。私学の教育であるから県などは喜ぶ筈もなかったのであるが、本田氏は少しも意に介することなく勇敢に実施したという。父兄の中には子供の要求する参考書の購入にうれしい悲鳴をあげたとも聞いた。その夏パーカスト女史は一人の秘書をつれてはるばる壱岐にきた。直ちに盈科小学校を訪ね、本田校長ほか壱岐の全校長たちとも会って意見を交換した。 パーカスト女史は盈小の教育の実際を見て非常に喜び、玄関のわきに記念植樹をして帰っていった。これらの事柄が新聞や雑誌に報道されて壱岐教育の名がいつとはなしに高くなり、郡外からの視察者も来るようになり、壱岐は教育王国などと気恥ずかしいような言葉さえ聞くに至った。熊本の援助はこのほかに青年教師の成城遊学を派遣した。はじめは一年遊学であったが、後には期日を短縮したようである。 |