刊行のことば

 アーノルド・ジョセフ・トインビー博士が、すぐれた歴史学者である所以は、該博な知識もさることながら、深い哲学的思索によって裏付けられているからであろう。ある西欧の学者は、『西洋の没落』の著者であるドイツの哲学者オスワルド・シュペングラーの思想がはいっているというが、トインビー博士は、文明の歴史を六千年前にまで遡って、考古学や新発掘品等によって、さらに科学的に跡付けることに努めている。蓋し、世間の云う”歴史は繰り返す”という漠然たる感想をもって筆をとったのでもない。

 歴史は繰り返しもあれば、そうでないこともある。変遷、発展の過程において、繰り返すというよりも、むしろ同似性、同時代性をみたのである。そのうち、同似性は歴史の過程においては”親と子”の関係を持っており、”西洋文明”というものを、そうした見解から指摘することによって、この西洋文明がいかに他の文明に影響を与えたかということを丹念に述べんとしている。

 トインビー博士がこれらの考えを抱いてギリシャに遊学し深く古典を渉猟し、これによりギリシャ。ローマの文明が、ローマ帝国の版図である中欧、北欧、ブリテン諸島におよぶものと、ビザンチン帝国の進出により、ロシアを含む東ヨーロッパの文明の二つの、大きな流れを生み出しており、この文明社会が世界文明の中心になっていると力説している。

 しかし、なお東方においては、四千五百年前の中国における黄河流域の文明についても、大きな関心を寄せている。そうして、暦史の動きは必ずしも形態化され、また、固定化されるものではなく、例えば、アメリカ合衆国の独立により、新たな血液を西洋文明に濯ぎ、その若返りというよりはむしろ老化、衰退を防ぐことに役立っているという見解は、最も注意すべき研究といわねばならない。

 いうまでもなく、トインビー博士は、第一次大戦に際しては、英国外務省情報局にあって政府関係のしごとにたずさわり、大戦後のパリー平和会議には英国代表団の一員になった。第二次大戦中は王立国際問題研究所(チャタム。ハウス)の研究部長として、第一次大戦中と同様、戦争の原因の研究に没頭し、第二次大戦後のパリー会議にも再び英国の代表団に加わって、二度にわたる大戦争で十分な経験と研究を重ねている。

 この実際面での活動は、博士の歴史研究に、非常に役立ったと思う。すなわち、戦時中の記録、情報を数十人にのぼる人を使って整理・調査したことは、戦争の起こる遠因・近因について深く思索を練る実験台となったであろう。私が一九五四年に博士を訪ねたのも、このチャタム・ハウスであった。 そもそも、本書の出版を私に薦めたのは、鈴木大拙博士である。大拙さんは私が一九五四年に海外へ出かけるに先立って、次ぎのような見解を述べられた。

「自分は、トインビー博士に貴君が行くことを手紙で知らせておいた。できるなら、博士の『歴史の研究』を日本人に読ませたいからだ。 戦前の日本人は、一種偏狭の頭でっかちで、物質面と、精神面の調和をとり損なって、識者からみれば判り切った敗戦という惨めな時代をつくりだした。戦後は反対に、工業力においても、生産技術においても、世界のどこの国にも負けない状態になりながら、なおかつ敗戦と敗北感につながるコンプレックスがとくにインテリ的な指導者の間に甚だしい。『歴史の研究』が広く日本人に読まれることになれば、こういう傾向に対して良薬になるだろう。」

 私もこれを涼としてチャタム・ハウスにトインビー博士を尋ね、オックフォード大学出版部から『歴史の研究』全巻の日本語版の版権を得たのであった。その頃、蝋山政道博士、長谷川松冶教授らが、D・C・サマヴェル編の縮抄版を出版された。これはなかなか良い本で、日本でも随分読まれ、今なお続いているのは結構である。しかし、如何にせん、縮抄はどこまで行っても縮抄で、これによって原著の持つ精緻な論証を知ることはできない。

 例えばローマ帝国の崩壊については縮抄版でもかなり原著に忠実に、大部を当ててはいるが、原著における支配的少数者に替わって、新しい社会を建設したローマ帝国の内的プロレタリアートと外的プロレタリアートの協力による活動の論証、さらに全巻に溢れる考古学的考察、かずかずの歴史的例証などは、美しい宝玉を一つ一つ点検するかの如く。完訳にしてはじめて納得しうるものであると信ずる。

 私は、この旅行から帰ったのち、鈴木大拙博士に御教示を仰ぐ一方翻訳を進めた。一九五六年には、トインビー博士が来日され、親しく教えを蒙った。しかし、完訳の出版は原著のもつ格調を失わず、しかも七千頁にのぼる浩翰な本文をことごとく訳了するには、たんに努力だけの問題ではなかった。ある程度予想していたものの、この事業は実際には予想以上に困難であった。また翻訳に関係した人が途中で病に殪れるなどのことがあり中絶のやむなきに至るかと思われた。

 だが終始配慮してくれたのは下村亮一君で、数年前から下島連氏や山口光朔教授らの協力を得て軌道に乗り、ようやく完成の目途がついた。一九六五年に、オックスフォ−ド出版局のチェスター氏が来日された折、スペイン語訳は順調に出版されているが、ある国では三年ばかり前に、とうとう完訳の出版を断念し、翻訳権を返上してきたということを話され、「他国語に翻訳することは、相当に困難であり、勇気のいるものであるが、貴君のところは今まで一日も中断されていないではありませんか!」と、むしろはげまされた。

 こういう経過で刊行会をつくり、やっと出版にこぎつけた次第である。トインビー博士が親しく筆をとって寄せられた本書の序文にも見られるように、近くはアジアの旅行によって逐次思索を新たにし、認識を深められ、遂にはじめの予定を超えて、全十二巻完成せられた精神の気魄は、私はじめ刊行会の関係者一同を勇気付け、成功に導く動機をなすものと信じる。
          
 一九六六年三月

 

松永安左エ門