信長公はキリシタンを保護し、秀吉公はキリシタンを迫害した・・・かくも恐ろしい宗教の実態

何故に隠れキリシタンが生まれたのか・・・を日本人として知ることは大切なことであろう。
戦後は憲法の影響で政教分離となり、一国一文明の基である神社・仏閣はタブーとなっていき、いや何ものかにされたた観はある。

隠れキリシタン百科事典

が、しかし日本人の心は・・・決して昨今の日本人の「困った時の神頼み」に見る様に変化しつつも崩壊はしていない。
むしろ、ますます、今盛んになっており、インチキ=オカルト宗教までも繁栄しているではないか。
その結果が今日の日本社会のモラルの低下の一因として大きいと管理人は考えている。・・・
日本教再発見の時か?

   私は日本教徒   武士道を書いた理由   政治家もやっと動き出した

情報源:産経新聞H22.4.27

日本二十六聖人物語

はじめに
壱岐の島は古来、対馬と共に日本と朝鮮半島、中国大陸との交通の要路にあって、外交、貿易、国防上大変重要視されてきました。日本の国が神話によって始まっているように、
壱岐の島も神話に始まっています。古事記によれば、5番目の島として造られたことになっています。伊岐、一支国、一岐、壱岐(ゆき)由吉、雪州、壱州等沢山の名称をもっています。

神代時代の神話は壱岐の至る処にあります。又、弥生遺跡も全島に散在しています。中国で書かれた「魏志倭人傳」には水田があり、戸数も3千余戸あると記し、対馬に比して3倍の戸数を書いています。次いで壱岐にも「古墳時代」が来るのですが、壱岐の人はこの
古墳を「鬼の岩屋」と言っています。巨岩を積み重ねたこの古墳は古くは338基あったように書かれていますが、今でも二百数十基あることが確認されています。

664年に防人、烽(のろし)の制度が出来、壱岐にも辺境の守りのために設置されました。736年遣新羅使の一行が壱岐に立寄り随員の一人「雪連宅満=ユキノムラジャカマロ」が病を得て没しましたが、雪連宅満の先祖は壱岐出身者で代々朝廷に仕え神祇官(ト部)を勤めていたようです。当時、朝廷には約20人のト部が居てその出身地は対馬、壱岐、伊豆の三地区であったように書かれています。主な出来事は741年に国分寺(島分寺)が置かれました。1019年には刀伊族の入冠があります。ついで元窪の役があります。

壱岐、対馬は無残にも痛めつけられました。又、壱岐の領主がたびたび代わりました。1571年、平戸松浦藩の領有となりました。明治の廃藩置県まで続きます。平戸はキリスト教と非常に密接な関係をもっていますが、壱岐は平戸藩(松浦藩)領ですのでそのためか最盛期には
島内にも、信者が500名余居たと言われています。又、壱岐の島は古代から流人の島でもありました。「兵籍記」にその記録があります。17世紀末には一度に120人もの僧侶が壱岐の島に流されたこともあります。

(御回記)1837年の大塩平八郎の乱によって、いとこの兄妹二人(宮脇新次郎、えい)が翌年壱岐に流されましたが、その子孫は堅実な家庭を築き今も尚、連綿として続いています。一時期
壱岐の島は平戸や対馬と共に倭冠の根拠地でもありました。倭冠は13世紀から16世紀にかけて朝鮮や中国大陸の沿岸を荒らしまわった海賊ですが、その代表的なものは松浦党であり、伊藤小左衛門等です。伊藤小左衛門が寄進したと伝えられる「小左衛門地蔵」が郷ノ浦町にあり、秘匿したと言われる莫大な財宝のありかを巡って庶民の好奇心をかきたてています。

古くは「国学」、近世に至っては「藩学」の制度がありましたが、離島の壱岐まではその制度が充分ゆきわたることはできません。
学識ある流人の手によって寺小屋式の教育が行われていた事は顕著な事実です。時代は移って、大正末期より昭和の初年にかけて壱岐の島は「教育王国」と言われ、全国各地よりの視察者が絶えませんでした。それは多大の私財を提供した後援者があったので、郡内の教育者が、これに応えて努力したからです。有名な教育学者でダルトンプランの創始者パーカスト女史(米国)も来島し、講演や指導をしました。

又、東京への内地留学や米国への研修旅行等当時としては随分思い切った活動がなされていたのです。今でも壱岐の島の教育に対する関心は高く、小学校、中学校、高等学校の校舎は凡て鉄筋コンクリート造りで完備し、高等学校生徒の公務員試験や大学への合格者数は県下の郡部では優位にあります。現在でも
壱岐の島には沢山の寺院や神社があり、その跡地を入れるとその数は数百になるでしょう。そのためか「迷信」や「俗信」も多く、古墳や城跡、民間信仰、その他の遺跡が沢山あります。

キリスト教関係の研究、調査が本格的になったのは昭和40年以降のことです
。当時私達の先輩である長島重義氏、吉原勝氏等によって石造遺跡に対する調査研究が行われたのを嚆矢として漸次島内におけるキリシタン史が解明されてきたのであります。私共は1988年(昭和63年)鳥取市において開催された「第1回全国潜れキリシタン研究大会」に参加したのを機にして本格的にこの研究に取組むこととなり「壱岐島遺跡保存研究会」(会長・林徳衛)を設立、会員も徐々に増加して、活動も顕著なものとなり、その学習過程の中で、この種の沢山の著作物に壱岐のかくれキリシタンに関する古記録が多いことも知ることができました。

又、この間、先輩研究会員や関係講師の方々からは写真や文書によって種々の御指導を賜りました。尚、川島恂二氏、柚木伸一氏、川瀬潔氏より豊富な学識と経験をもととした現地指導をうけ私共の研究活動を激励、推進していただきました。「壱岐島遺跡保存研究会」の諸事業を遂行するには多大の経費を要する処ですが、郡内有志の方々の発起により「壱岐島遺跡保存研究会後援会」(会長・山口定徳、顧問代表・赤木保)を結成していただき御支援と御激励を賜ると共に「壱岐郡町村会」(会長・山口銀矢、石田町長)においても本会の事業について御理解頂き、毎年多額の公費を御助成賜っております。

「推薦の言葉」を賜った、長崎県知事高田勇様を始め各方面の温かい御支援と御激励に対しまして深甚の謝意を表するものであります。お蔭様をもちまして
「かくれキリシタン」の存在を裏づける遺跡や文化財が次々に発見、発掘されつつありますことは誠に喜ばしいことであります。

今回(1993.5)壱岐島において「第5回全国かくれキリシタン研究大会」を開催することとなりましたが、今後ますます体制を強化し、たゆみなく調査、研究活動を続け発展させてゆきたいとものだと会員一同決意している処でございます。