新春対談 三好 達(日本会議会長) 田中恒清(神社本庁総長)
対談そのA:教育と神社
内外共に、国難ともいうべき昨年であったが、新年を迎えるにあたり、国民としての心構えを語り合っていただいた。
国民意識の覚醒を!
☆地域の核としての神社
三好: 田中先生には、昨年(平成二十二年)六月、神社本庁の総長にご就任されましたが、神社界の直面している問題、あるいはとくにお力を注いでいこうとされている点について、お考えをお聞かせ願えればと思います。
田中: いま、地域共同体が脆弱になってきています。それは元を質せば、家族の問題、行き過ぎた個人主義の問題に起因しています。神社は地縁血縁が大前提でありますから、地域が崩壊すれば、日本の伝統的な信仰が薄れていく、忘れられていく危険性があります。例えば氏子がいない、つまり神社をお守りする人がいない神社もある。あるいは、全国約八万社の神社を約二万三千名の神職が護持していますが、なかには一人の神職が五十社、七十社と受け持っていることもある。
こういう現実のなかで、いま必要なのは、地域の核としての神社の存在ということについて神社関係者が認識を新たにすることだと思います。私はこれを、「鎮守の杜共同体」、あるいは「神社共同体」の再構築と呼んでいます。神社はお祭りを行うことが第一義でありますので、まずは祭祀をしっかりやっていく。そのためには、情報交換を活発にして、複数の神職を抱えているところから手の足りない神社にお手伝いに行くといったようなシステムを作っていく必要があると思います。
またオウム真理教の事件以来、宗教法人法が改正されて、役員名簿や財産目録など役所への報告が義務づけられました。神社とお寺とで会計を共有しているところなども多く、それらを分けて報告することは大変煩雑な手続きとなりますが、それを怠ると宗教活動をしていないということで、宗教法人としては解散命令が出されるということになる。これを避けようとして他の神社に御祭神をお遷しして合祀する、法律的には合併ということですが、これをやらざるを得なくなる。すると、長い間、氏神さまであった地域の神社がなくなってしまうということになります。
三好: いったん、よそにお遷しして合祀しますと、元に戻すことは困難になるのでしょうね。
田中: そうです。神社神道の根幹である氏神信仰が薄れていくということになりますと、地域の過疎化はますます進行します。これを何とかくい止めるためにも神社同士がお互いに協力体制をとっていくことが必要なのではないかと、いま話し合っているところです。
ー地方の過疎化が進むなかで、水源である日本の山を中国人が買い占めている事態も進行しているとのことですが。
田中: 世界遺産の熊野地域も買われています。中国人と分からないように日本人ブローカーが間に入ってやっている。もちろん神社の境内ではないわけですが、民有地のところがどんどん買われている。憂慮すべき事態です。
☆御遷宮の意義
三好: そのような厳しい現実もあるなかで、平成二十五年にはお伊勢さまの式年遷宮がございます。田中先生には、今回の第六十二回御遷宮の広報本部長として、以前よりご活躍とお聞きしておりますが、改めて御遷宮の意義について、我々日本国民としてどう受け止めていくべきか、お話をお伺いしたいと思います。
田中: 御遷宮は、二十年に一度、内宮・外宮を始め社殿をお建て替えし、御装束神宝も新調して、御祭神を新しいお社にお遷しするという重要な祭儀です。
なぜ二十年に一度かといいますと、もちろん、建物の老朽化や技術的継承という物理的理由があり、最近ではそのことを前面に出して説明する傾向がありますが、より重要なのは、信仰的な理由なんですね。神社神道の八百万の神々は、我々のごく間近におられる神々ですので、人間が年中行事や人生儀礼を通して節目節目で心機一転するのと同様に、神様も節目節目でご神威を高めていかれるのです。
三好: 人間が節目節目の人生儀礼で人間性が高まっていくように、神様のご神威も高まっていかれると。
田中: そういう日本民族の気質というものがあって、その集大成が式年遷宮といえるのではないでしょうか。神様のご神威がさらに輝いて我々人間も新たなエネルギーをいただき次のステップに向かう、そういう国家的な祭祀が式年遷宮なのです。
今の時代ですと、「二十年に一度ではもったいない」という批判があります。神社は鎮守の杜を守ろうといいながら、遷宮のために多くの檜を伐っているのは資源の無駄遣いではないかと。
確かに古代においては、一度使ったものは、全部土中に埋められていたわけですが、いまはそうではなく、御遷宮で生じる古材は、全国の神社に分けられて、各神社のお社の新しい用材として蘇っていくのです。
三好: それはすばらしいことですね。それから、それだけの大事業を遂行するには多額の費用もかかると思います。奉賛事業を通じてお感じになられていることは。
田中: 今回の御遷宮の費用は五百五十億円で、うち二百二十億円を国民総奉賛として全国の神社関係者や企業・団体に集めていただいております。おかげさまで、「式年遷宮のために御奉賛お願いします」という一言で、皆様よく御奉賛いただいております。
三好: すぐにご理解いただけるわけですね。
田中: はい。「神宮さまのためならば」という思いを持っておられる国民は、まだまだたくさんいることを実感して感謝に耐えません。と同時に、私が危倶しておりますのは、今回が六十二回目の御遷宮なのですが、その次、つまり二士二年後の次回の御遷宮のときには、戦前生まれの方はほとんどおられなくなっているということについてです。つまり、このままでは、「式年遷宮って何ですか?」と御遷宮への理解が浅い国民が大多数を占めてしまうのではないか。
ある雑誌の取材を受けた時のことです。記者からこう聞かれました、「どうして石清水八幡宮の宮司さんが、伊勢神宮のことにそんなに一所縣命になられるのですか」と。
神宮の式年遷宮は、戦前は国家が責任をもって遂行していましたが、戦後は、それができなくなり、神社界全体が、最も尊貴なお社として崇敬し、国民の皆様の浄財を集める奉賛活動という形でその費用の一部をまかなってきました。そうした経緯は一般の国民のみならず神社界でもしっかりと広報していかないと、やがて自明の理でなくなるときがきてしまうと危機感を覚えております。
経済界も、いまどんどん外資が入ってきて、いわゆる外資系企業が増えている。日本的な慣行や心情が伝わりにくい企業風土がますます強くなっていくのではないか。
ですから、いまのうちから、御遷宮の意義、精神をしっかりと広報していかなければいけない。言挙げしないのが神道だと悠然と構えているわけにはいかない。あらゆる機会をとらえて、御遷宮の意義を伝えていく、そういう発信がいまこそ必要なのです。
三好: 「伊勢神宮」という名称はなく、伊勢の「神宮」であると教えて頂いています。他の神宮は、例えば明治神宮、平安神宮のように、○○神宮と名前がつくが、お伊勢様は、「神宮」であって「伊勢神宮」ではない。つまり、「a
jingu」ではなく、「the jinngu」であると。神宮は、日本の神社、もっといえば民族信仰の大本であるという意識を国民に持ってもらうことが大切だと思います。このことを理解するには、まず日本人の宗教観を理解しなければなりません。
☆日本人の宗教観
田中: 私は、他宗教との交流を長くやってきておりますが、日本人は純粋に、「神も仏も」と思っています。
三好: 我々日本人は、一つ屋根の下に神棚があり仏壇があることを何も不思議に思いません。
田中: 一神教の人々にそういう話をすると驚かれます。日本人はそんなに宗教的に無節操なのかと。
三好: 宗教が雑居しているなどと蔑むように言われますが、そうじゃないんですね。
田中: あなた方が日本人と同じような気持ちになれば、宗教に起因する紛争は起こらないのではないですか、と私は反論します。どの宗教でも畏れ敬う心を持っている。そこを認め合えばいいのではないかと。
三好: ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、もともと同根なのに、喧嘩ばかりしています。一方、日本人の宗教観は、「生かして頂いている」ということから発しています。
人は、縦軸と横軸で生かして頂いている。私は、これが天地自然の理と思っています。縦軸は祖先崇拝。何代も遡れば天文学的な人数になる祖先のうち誰一人欠けても自分はいない、つまりご先祖のお陰でいまの自分は生きている。
自分もまた、自分の命を子孫に引き継がなければならない。横軸は、一人では生きられない、つまり周囲の人々に支えられ、あるいはまた自然の恩恵によって生かされているのが自分であるということです。神社の御祭神は、祖先の神々であり、また気象、天体であったり、山や川など自然であったり、衣食住など生活を支えるものすべてに神を見いだし感謝してきた。それが日本民族の宗教の根幹ではないでしょうか。
田中: 一神教は、書かれたもの、つまり神との契約によって成り立っている。これに対し、日本人の信仰は、自分を超えたすべてのものに神を見るわけです。
三好: まさに、神=上なんですね。
田中: 自分を超えたものに生かされているという感覚。おかげさま、ありがたいという気持ちで、日本人はこの日本列島のなかで生き続けてきた。環境保護運動の言葉で、「地球にやさしい」あるいは「地球を大切に」などというフレーズがありますが、これらの表現に私は人間の奢りを感じます。
これは日本人の感性にはなじまない。なぜなら、人間も自然の一部であり、自然に生かされてきたと感じてきたのが日本人だからです。自然の命をいただくけれども、いただいた命は次にお返ししていく。そういう循環を大切にしてきました。御遷宮はまさにそうで、檜を伐採したあとは、木の命に感謝し、さらに次の世代の芽を植えていく。国土に占める森林面積の比率で先進国第二位の日本ですが、人工林が多い。生命の連続性のなかに人間も関わり、神々の存在を受け止めながら謙虚に生きてきたのです。
三好: 子供の頃を思い出しますと、お正月には台所や井戸やトイレなど家中いたるところに輪飾りがありました。すべてに感謝する心温まる社会だったような気がします。西欧では、動植物は、造物主である唯一神がその唯一神を信じる人が生きるために創ってくださった。だから、唯一神を信じる人は自然を享受していい。日本人の感覚とは大分違いますね。
田中: 日本人の自然観は世界に誇るべきものだと思います。自然の中の気配や空気などを受け止める繊細な心がありました。
三好: 針供養があったり、鯨を供養したり、西欧人には不思議に見えるでしようが、我々にとってはよくわかる感覚です。さきほど、「神も仏も」とのお話がありましたが、田中先生は、「日本仏教の母体は神道である」とおっしゃっておられますね。
田中: 仏教が日本に伝来したとき、日本人はその仏像を見て、異国の神様はこういう姿をしておられるのか、と感じたに違いないと思うのです。
三好: 本地垂遊説の逆ですね。仏が仮に神の姿をとって現れたとするのが本地垂遊説ですが、むしろ、神が仏の姿をして現れたというわけですね。元々の仏教は自己の悟りを追求するもので、祖先の供養や自然への感謝、畏敬などはなかった。ところが、日本に入ってからは、祖先崇拝、自然への感謝を伴った仏教に変容したわけですね。
田中: 日本の仏教各派の開祖の多くは、比叡山で修行しました。千日回峰などの行は、大自然に生かされていることを感謝しながら山を踏破する修行です。自然仏教といってもいいほどです。仏教も賢かった。排他的にはやらなかった。
三好: 日本人が仏教を賢く育てたとも言えるのではないでしょうか。
田中: 神仏習合、神仏混交という言葉自体は明治以降につくられたものですが、「神も仏も」という感覚をごく当たり前のこととして、日本人は明治維新まで過ごしてきました。ちなみに明治初期の廃仏毀釈、誤解されているようですが、神社の境内から仏教のものはなくそうというもので、お寺に対して仏像を廃棄せよといったのではありません。
京都は仏教界と神社界が近い関係にあります。京都古文化保存協会など、仏教界と神社界が協同して参加している団体がいくつもあり神社界の人が会長等を務めることがよくありますが、これなども神道は仏教の母胎だから、仏教各派と対立する要素がないという証ですね。
三好達(みよし・とおる)
昭和2年東京生まれ。海軍兵学校卒(75期)。東京大学法学部卒。昭和30年、裁判官に任官。各地の裁判官、裁判所所長、官、最高裁判所判事などを歴任。平成13年、日本会議第3代会長に就任。
(7最高裁判所首席調査官、東京高等裁判所長平成7年、最高裁判所長官に就任({9年まで)。
田中恒清(たなか・つねきよ)
石清水八幡宮宮司。昭和19年京都生まれ。國学院大学神道学専攻科修了。全国八幡宮連合総本部長、文部科学省宗教法人審議会委員などを歴任。第62回神宮式年遷宮の広報本部長として広報活動に奔走。平成22年6月、神社本庁総長に就任。始祖の武内宿禰から58代目。
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