平成のオピニオン「日本の核武装」 新防衛計画大綱

     昭和・正論座 (産経新聞:京都産業大教授 小谷秀二郎昭和53年6月28日掲載)

             オピニオン

      自衛隊「有事研究」当然だが・・・・


☆「危険な」部マスコミ

金丸防衛庁長官の指示によって、統合幕僚会議、陸海空幕僚監部の制服組と内局のスタッフとの合同で、「有事」に対応する自衛隊の作戦研究を、ニカ年間に亘って行うことになった。おおよそ一年前の六月の本欄に、筆者は「新・三矢研究」を提唱しておいた。「現在の時点で、突拍子もないことだと一笑に付されるかもしれないが、あえて提案するが、今日的意味において、かつて重大な問題を醸し出した"三矢研究"を、しかるべき政府機関によって行い、しかるべき方法によって、その概略を国民に公開するようなことも必要なのではないか」というのが、それである。その意味で、今回の防衛庁長官の指示は、当然のことと支持するし、大いに研究の成果が挙がることを祈りたい。

だが、この研究に対して、全国紙の社説の中には、全く見当はずれの見解を表明したものもあり、いかに防衛間題というものが、日本にとっては取り扱いにくい問題であるかを、今さらながら改めて知らされた思いがする。この種の研究が、今日まで放置されてきた理由の一つは、このマスコミの一部に依然として残っている、防衛問題アレルギーの発作にあると考えざるをえない。しかもそのアレルギーたるや極めて重症であることが、その社説を読むと歴然たるものがある。

このような重病人に、健全な世論をリードする資格はないばかりか、このままでは危険ですらある。日本における防衛間題が、正しく解決されて欲しいと望むならば、何よりもまず世論の形成に大いに関係のあるマスコミの一部に見られる、不健全な体質そのものをいかにして改善するかにかかっている。自己批判が必要なのは、他を批判するマスコミ自身であることを是非忘れないで欲しいものである。

☆超法規措置の前例

ところで、これから行われる「有事」の防衛研究に先立って、考えてみなければならない間題を提起しておきたい。それは、決して新しい問題ではなくて、以前から筆者も提起したことのあるものだが、決してその解答を口にすべきではないと考えられてきた問題である。それだけに、その問題は「有事」に当たって間髪を入れず解答を求められる基本的な問
題であるにもかかわらず、「有事」が本当に来るまでは、何人も解答を渋ってきたものである。

平時にあっては、それは架空の設問には違いないが、現実には、有事に際して発生しないという保証もないし、それだけにそのような事態が生じないうちに対処することこそ、より望ましい防衛政策であることに異存はないが、不幸にして次のよユな事態が発生したときは、どうするかということである。

もしどこかの国の軍隊が、日本の領土の一部に上陸してきた場合、その地点が無人であるならば問題はないのだが、村落があり、住民が生活している地に侵略が行われたと仮定すると、自衛隊は防衛出動が命じられたとき、直接侵略の排除のために、実力行使が出来るかどうかということである。別の言い方をするならば、直接侵略に対処するということは、侵略軍に対する武力の行使であると共に、その地点に日本人が何人か、何百人かいたとすると、結果的には善良な日本人に向かって自衛隊は砲撃する場合も往々にしてありうることになるが、それでも自衛隊はそうするだろうかということである。

その場合、考えることは、かつてハイジャック事件を解決するに当たって、人間の生命の値は「地球より重い」という考え方に立って、犯人側の要求に応じて、いわゆる超法規的処をとったことである。

☆日本人共通の課題

日本人が人質にとられている点では、ハイジャックも、直接侵略を受けた場合も同じであるが、後者の場合の解決に当っても、もし超法規的解決方法をとるとするならば、自衛出動は成り立たないし、もし侵略側が何らかの要求をつきつけてきた場合、それを飲む以外に解決方法はない。

ということは、大多数の日本人の生命を守るために、一部の日本人を見殺しにするばかりか、日本人である自衛隊員として、占領されている地域や地点の日本人に対して、殺傷させることになる防衛出動は下命されるのかどうかということである。

それは最高指揮官である総理が決断を強いられることであると共に、現地の自衛隊の指揮官も直面しなければならない、重大な問題である。

そしてそれは同時に、総理や防衛庁が悩まされる間題であると共に、日本人全体にとっても共通の問題である筈である。この直接侵略の排除の間題は、往々にして「敵が侵略してきた場合、あなたはどうしますか。銃をとって闘いますか、それとも自衛隊に委せますか」云々といった世論調査の質問が投げかけられ、同時に答える方も、簡単に答えが出され、何%が銃をとってたつとか、逃げると答えた人が何%あったというように処理されるのが普通である。しかし、既に指摘したように、侵略者に対する排除には、決して簡単には答えられない筈の間題を抱えている場合が往々にしてありうることを、われわれは考えておかねばならない。

ということは、.「有事」の防衛研究は、その出発点において、口に出すことがはばかられるような間題に対して、コンセンサスを与えておかない限り、出て来る結果は非現実的な論議の展開に終わるだけとなる。

その「研究」がどれほど具体的であれ、マスコミが懸念する文民統制が完全に行き届いたものであれ、日本人が日本人を殺傷することを前提にせざるをえないケースに対して、はっきりした大原則を持たない限り、その「研究」は結果的には抽象論に終わってしまうことになる。

超法規的解決策をとった経験を持つ日本人にとって、「有事」の研究は、「非情」の域を超えられるかどうか、そしてそれが国民的コンセンサスを得られるかどうかの試金石となる筈である。(こたにひでじろう)

【視点】有事の研究は、どこまで「非情の域」を超えられるかにかかると小谷氏はいう。それは人質事件と同じで、人質が傷つく恐れがあっても、再発防止のためには特殊部隊を突入させて奪還しなければならない。「有事」には、間髪入れずに実力行使が求められるから、「平時」に覚悟を固めておく必要がある。

ところが、戦後の日本は、人質犯の要求を受け入れる超法規的解決法だから、再発防止に心を配らない。同じように、最高指揮官である首相が、平時の「有事」研究を怠るから、一朝有事に迷走する危険がある。小谷氏は大多数の日本人の命を守るために、時に少数を見殺しにする勇気を為政者に求めている。(湯)