BGM:旧陸軍軍楽隊・」山口常光指揮「愛馬行進曲」
松永安左エ門翁 独自の風土と歴史、そして豊かな自然に恵まれた壱岐は、何人もの偉人を輩出してきた。「電力の鬼」といわれた松永安左エ門翁も、その一人。 安左エ門は明治八年、壱岐の石田町に生まれた。中学時代に読んだ福沢諭吉の「学問のすすめ」に感激し、明治二十二年、上京して慶応義塾大学に学ぶ。父の死などで結局、卒業はしなかったが、次第に電気事業と深い関わりを持つようになっていく。そして戦後、安左エ門の案を基本にした電力事業再編が進められ、九つの新電力会社が誕生するのである。 電力事業再編と、その後、電力会社の基盤を強固にするため実施した電気料金値上げの過程において、 安左エ門は「電力の鬼」の真髄を発揮する。日本の復興と電気事業の発展のため悪役に徹し、電気料金値上げに反対する政府首脳には、「文句があるなら代案を出せ・・・」と迫った。その態度に.は鬼気迫るものがあったという。 そんな豪放らいらくで物おじしなかった安左エ門が、「日本で一番怖い人物」と一目置いていたというのが黙雷(もくらい)禅師である。 竹田黙雷禅師 騎済宗建仁寺派第四代管長竹田黙雷は、嘉永七年(一八五四年)、現在の壱岐市勝本町西戸触に生まれた。七歳の時、太陽庵(壱岐市石田町)で出家。十五歳の時に福岡へ渡り、崇福寺蘭陵に宗学を翌年、旧黒田藩の儒学者亀井南冥に漢学、旧秋月藩の儒学者近藤木軒に儒学を学ぶ。 長年の修行の後、明治十三年に建仁寺派へ転じ、明治二十五年、三十九歳で建仁寺派管長となってからは、神仏分離令後の仏教の乱れを正すために僧侶の教育と養成に全力を注いだ。三十九年間の管長在任中に集まった弟子は僧俗約四千人。数多くの著作でも知られ、難解な禅を親しみやすいものにした功績は大きい。 熊本利平翁 安左エ門の妹婿である熊本利平翁は明治十三年、現在の壱岐市石田町印通寺浦に生まれた。慶応義塾大学卒業後、朝鮮半島で大農場をつくるという夢を実現するため単身、朝鮮半島へ渡る。以来、農業経営に全身全霊を傾け、やがて約四五平方キロメートルにも及ぶほどの大農場をつくり上げ、「日本一の大地主」とまで呼ばれた。 利平は愛郷心が深く、学校教育の充実が郷土壱岐の文化を高めることにつながると考え、教育振興には惜しみなく巨額の援助を行っている。教師の研究意欲を高めるため、著名な学者を壱岐に招聘し講演会、講習会等を開催した。 さらに、小学校校長の米国教育視察、東京成城学園への資金援助や研究生の派遭、「ダルトン・プラン」の提案者であるヘレン・パーカスト女史を壱岐に招いて新教育講演会を行うなど、その功績は枚挙にいとまがない。 山口常光翁 初代警視庁音楽隊長、山口常光翁も壱岐を故郷に持つ。明治二十七年、壱岐の鯨伏村(現在の勝本町) に生まれ、大正元年、勇ましい軍楽隊に憧れて東京新宿にある陸軍戸山学校に入学。昭和五年にはヨーロッパヘ留学し、翌年、帰国すると早速、本場仕込みの指導法で軍楽隊を鍛え上げた。昭和16年年、太平洋戦争が勃発。やがて学徒出陣が始まるが、常光は東京音楽学校へ(現在の東京芸術大学)の学生十四名に音楽を続けさせるため、上官に掛け合い、軍楽生徒として入隊させた。その中にいた のが、戦後の日本クラシック界を担う団伊玖磨や芥川也寸志である。 最後の軍楽隊長として終戦を迎えた常光は、昭和二十三年に警視庁音楽隊を誕生させ、初代隊長となる。警視庁を退職した後は後進の指導に努め、吹奏楽の魅力を全国に広めていった。故郷壱岐に対する思いは終生変わらず、小中学校の校歌などを作曲している。 真鍋儀十翁 普選法成立の中心人物であり、第一級の芭蕉研究家でもあった真鍋儀十翁は明治二十四年、壱岐の芦辺町に生まれた。世の中に「普選運動(男子普通平等選挙権の獲特運動)」の声が広がり始めると、儀十は上京し明治大学法学部に入学。在学中から普選運動に身を投じていく。そして、大正十四年の選挙法改正によって遂に「男子普通選挙制度」を勝ち取り、満二十五歳以上のすべての男性に選挙権が与えられたのである。この普選運動で築いた基盤をもとに、儀十は昭和五年、東京都江東区から衆議院議員に立候補し、最高点で初当選を果たすと、以来、戦中戦後にかけ六期にわたって国政の場で活躍した。 その一方で、次代を担う子ども達には幼児時代からの教育が大切と考え、昭和二十年代の終わりに自宅の庭を開放して「まなべ幼稚園」を設立。また、「芭蕉記念館」(東京都台東区)の開館に際して、多くの書や短冊などの資料を寄贈している。 国境の島と元寇の役 壱岐は国境の島であるがゆえに外敵の襲来にさらされることも多く、国防の最前基地としての悲しい歴史も生んだ。特に文永の役、弘安の役と二度にわたる元冠では、延べ十八万の元軍に攻め込まれ、多くの武士や島民が犠牲になった。少弐資時(しょうにすけとき)は、弘安の役で島の人々を守るため元軍と勇敢に戦い、討ち死にした壱岐の守護代。この時、資時は弱冠十九歳の若武者だっ、たという。 弘安四年(一二八一年)、元軍は太宰府を攻め落とすには最も便利で良港だった壱岐の瀬戸浦を占領するため、襲いかかってきた。資時は壱岐の守護代として元軍を迎え撃つが、遂に壮烈な最期を遂げる。この島が経験した悲しい歴史と、勇ましく戦った少弐資時を長く後世に伝えようと、壱岐の芦辺港には馬にまたがる粛々しい資時の像が建つ。
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