壱岐の島から(5)

月読神と占部氏について

                                   
萩原弘道
韓混乱し月神出現

島をめぐるうち、中央を横断する幹線上にある、「月読神杜」の前を何回も通った。案内して下さっている占部英幸さんはすぐ近くに自宅があるせいばかりでなく、どうやら月の神さまのお守り役をもって任じているらしい。「古代壱岐の豪族は壱岐氏といいますが、.その壱岐氏は古い時代の占部氏の出であり、月読尊は占部氏と探いかかわリがあるのです」占部氏のことを語らせたら、夜を徹しても終わらないと思えた。「あなたが萩原と名乗られたとき、どこの萩原さんですかと問いました。武田軍団と聞いて、この人はわが占部にかかわる人だと思ったのは、天正9年(15
81)に武田信玄魔下に松尾若狭の守行弘という人がいて、遠州高天神城攻めで戦死しています。この6代前の人が武田信満の懇望で甲州の松尾牡の社司となり、神事・亀ト・日本紀を講じています。占部の人です」

この系統の占部氏は、さかのぼると中世代々の人が「月読宮長官」であり「松尾社公文」を兼ねている。長官は官司のこと。公文はがんらい公的な文書のことだが、ここでは松尾大杜の文書を扱うという職掌ということになる。つまり占部
氏は」京都へ上っていたのだ。このことは『統軍書類従巻181』の「松尾社家系図」に『占部伊岐氏本系帳』として出てくる。やはり占部氏は月読の神と密接につながり、さらに京都の松尾大社の社家であったことになる。そこで占部氏をさかのぽっていくと「天児屋祇命」(中臣氏の祖)にたどりつく。神事・太占を職掌とする中央氏族が壱岐から出発したしたわけだが、その11代目が「雷大臣命」。前号で神后皇后に四大夫の筆頭としてつき従った中臣の烏賊津の連(むらじ)のことだ。その子の「真根子命」(母親は武内宿楓の妹)は神功皇后の時代に父に従って百済にわたり帰りは島司として壱岐にとどまって、初めて占部と称し、土地の名をとって壱岐氏とも名乗ったとある。古墳時代の豪族「壱岐氏」の発生である。

壱岐国は相変わらず田畑に乏しい小国なのだが、大古墳群が展開し
ているところから推して、古墳時代は三韓あるいは漢の文物を運ぶ中継基地として盛んな島であったことがわかる。とくにに朝廷の、”筆頭大夫”である雷大臣(イカツオミ)は一人の息子(中臣、のちの藤原氏の祖)を都に置き、もう一人の真根子を壱岐に置き、自らは百済にあって、日本の権益の強化につとめたのだろう、百済人女性を現地でめとって一男をあげている。この子は「日本大臣」という名で、のちに父の国へ帰化し、栗原連(むらじ)となっている。

壱岐の古墳は、山ロ麻太郎氏によると三六六基とされている。そのうち島の真中あたり「中部濃密地帯」に九二基が
分布しており、10〜18mの巨大な石室をもつ大古墳が集中している。のちに壱岐氏は氏寺を国分寺にあてるのだが、大古墳群はその近くにあるところから、壱岐氏の墓地だろうという想定がむずかしくないのだ。とリわけ見事なのは、この時代の壱岐氏の最盛期のものだろうという立派な石室をもつ双六古墳(6世紀後半・91mの前方後円墳・勝本町立石東触)で、左の写真がそれだが、発掘されたばかりで横穴式石室が開ロし、土砂崩れを防ぐため土嚢を積んで補強してあった。私がが帰郷してからだが、文化庁主催の新発見考古速報展に、この古墳からの出土品も展示された。被葬者がはいていた単鳳環頭太刀(たんぽう・かんとうたち)は日本製だが、緑と薄い黄色のまじった二彩(二色)の陶器片は、大阪の東洋陶磁美術館から.、日本最古の中国産陶器説が出された。

この太刀と陶器が当時の壱岐の立場をよく物語っているといえよう。さて、また壱岐氏の系図にもどってみよう。壱岐に落ちついた真根子から5代目に「忍見命」(押見とも書く)が出てくる。母は紀大磐宿楓の娘というから、えらい嫁をもらったもめだ。

紀氏は武内宿楓から出た一族で、三韓に軍事的に進出した氏族の中心になっている。忍見の月である大磐はその中でも専横で他の将軍たちをしりぞけ、三韓に軍政を敷いた。さらに顕宗天皇3年に自ら三韓の王になろうとして失取し、倭(日本)の三韓経営衰退のもとをつくっている。

この人、帰国してはいるが「終わるところを知らない」と書かれている。生死が定かではない。中央に戻れないとすると、行つくところは娘め島しかないと大磐は思ったに違いない。しかし忍見命は大磐の事件のあと壱岐島を出て今の京都へ移っている。ここでようやく月読宮が出てくるのだ。

大磐の事件に関連して、顕宗天皇3年紀に、朝廷の命で任那にわたった阿閣臣事代が出てくる。大豪族阿部氏と同属の将軍で、混乱した三韓を収拾するためだろう。そのとき「月神」が人に着いて(憑いて)「わが祖、高皇産霊(たかみむすび)、天地鎔造(造化)のとき功あり、神地をたてまつれ。われに月神である。.必ず福があるべし」という意味のことを言った。どこの月神かといえぼ壱岐の月神、今の「月読神社」であったろう。これは大事なところで、月神は高皇産霊の子孫だというのである。

朝廷では事代の帰朝報告でこれを知り、山背国(今の京都府南部)葛野郡の歌荒操田(うたあらすだ)という土地をあて、月神をおまつりし、壱岐県主の押見宿楓が神社をお守りするために異動し、代々子孫か「月読宮長官」を継承するのである。これが廷喜式内、名神大社とLて記された葛野坐月読神社」で、洛西の松尾大社の南約500m、今の右京区松堂山
添町である。今は松尾大社の境外摂社になっ.ているが、がんらいは格式の高い古社で、代々の占部壱岐氏が、中世は松堂氏を名乗って月読宮と松尾社に奉仕してきた。

今も松尾氏同族会があって、遠祖の押見宿楓(忍見命)を追慕して、、木像をおさめた月読神社に集まるのだが「その
中に萩原氏もいるのですよ」と壱岐の占部英幸さんは私に言って(お前も占部だ)と暗に同族を意識させようとなさるのである。どうもこの卜家の系統は神道家、国学者が多く、近世の神社神道を統轄した京の吉田家もそうだし、かの「徒然草』の兼好法師も、その占部「古田神道」家の出である。一方、わが先祖はどうかわか.らないが、萩原で人名辞典にのるような人士は、神道家、国学者が目立つのであって、「或いは」という思いがしないでもない。

この話をつづけていくと「橋本元首相家もそう」という占部英幸さんの”術'策”にはまる気がするのでこのへんにするが
、系図、家系はともかく.、問題点がいくつか出てきたと思う。それは「月読神と高皇産霊尊の閲係」で、私の海人族の研究になぜ月読神なのかといえば、占部さんが「海人族は潮の干満を自由にしたという。潮の動きをみるには月の動きをみることではないですか。だから海人族の神とみてもいいのではないか」というヒントからである。

なるほと月読神は「月の動き月齢を読む」神であることを不思議と忘れていた。この視点は、今まで私ばかリでなく多く
の人々に欠落していたことだと思う。そこで月読神を調べる必要が出てきた。記紀神話では日神を天照大神に擬し、月神を月読尊として、素蓋鳴尊とともに姉弟としているが、これは融合のための神話で、じっさいは氏族を別にしたものだろう。・・・・・・つづく・・・この項おわり。







壱岐・月読神社(延喜式内・名神大社)。月読神の本家である。
下は石田町の「遺新羅使・雪連(ゆきのむらじ)宅満(やかまろ)
の墓」天平8年(736)新羅への途中壱岐で病没した雷氏は京の
壱岐氏。父祖の島に眠ることになった。









神話の三貴子アマテラス」「ツクヨミ」「スサノヲ」あまり表に出ない月読神様、その真相???




通訳をお願いしています、少々の有余を・・・

高御祖神社
 延喜十八年(918年10月15日)高御祖明神の
社内鳴響き
 火輝きて東に飛び去ることあり
 これは兵革のきざしなりと
卜部等 卜(うらない)申す由を奏しき即この神なり

わが祖タカミムスビと月神が伝える月讀神社と手長姫は
兄妹月讀尊の神裔(しんえい)は卜部


延喜十八年
手長比売明神社
住吉明神社
鳴動いて太鼓の轟くが如く
その御体の美石 宝殿より出て地上に顕はれ給へり
卜部をしてこれを卜 はしむるに、兵革の兆しなりと申しき。

今 敵国降伏軍越の神事あり。


郷ノ浦町誌外