元軍、北九州へ来襲 文永の役おこる
集団戦法などに日本軍苦戦!

1274年10月20日 筑前 都元帥(総司令官)析都(きんと)に率いられたモンゴルル軍2万,高麗軍(こうらい)1万数千
からなる元の軍勢が、この日早朝、博多湾の今津から百道原(ももちぱる)にかけて上陸を開始した。迎え撃つ日本軍は、少弐経資(しようにつねすけ)(49)を総司令官とするおよそ1万である。前線の博多では経資の弟景資(かげすけ)(29)が指揮にあたった。これに先だち前日午前8時ごろ、900の船に異装の兵を満載した元軍は、東は筥崎(はこざき)から西は今津に至る博多湾に舳先(へさき)を連ねて侵入した。彼らは、10月3日に朝鮮半島の合浦(がつぽ)を出発し、途中、すでに5日に対馬、4日に壱岐を襲った。両島ともに守備の武士が奮戦したが、衆寡(しゆうか)敵すべくもなく一蹴された。対馬では,農民の男は殺され,女は集められて手のひらに穴をあけられて縄を通され、船べりに吊るされたという。

対馬・壱岐来襲の報はただちに鎌倉・京都に送られるとともに,大宰府・博多湾を中心にさらに防備が固められた。この日上陸した元軍のうち、主力のモンゴル軍は筥崎・博多方面をめざした。各地でたちまち激しい戦闘が始まったが、モンゴル軍の集団戦法、新兵器、さらに毒をぬった射程の長い短弓の前に、日本軍は苦戦に追いこまれた。モンゴル軍はじりじり前進し、夕刻にいたるころには博多の町を踏みにじり、沖ノ浜の本陣近くまで攻めこんできた。博多・筥崎の町をはじめ各地で火の手があがり、人家を焼く猛火は天を焦がした。敗走を続ける日本軍にも、数々の戦功はあった。少弐景資は,モンゴル軍の大将とおぼしき身の丈7尺ばかり、長い髭をたらした偉丈夫に追いかけられたが,振り向きざまに矢を放ち、重傷を負わせた。この重傷を負った男こそ、モンゴル軍の副将劉復亨(りゆうふくこう)であったという。こうして戦局は元軍の一方的な優勢のうちに夜を迎えたが、なぜか元軍は野営を避けて船に引き揚げた。日本軍は大宰府に向けて退却し、水城に陣をかまえた。多くの武士の妻子たちが元軍に捕らえられた。また,老人・子供を連れて逃げまどう人が、哀れをさそった。

日没のころから強まった風雨は夜になっていちだんと激しさを増し、博多湾に浮かぶ軍船は激浪にもまれた。高麗人民に強制して建造させた船は粗悪で、つぎつぎに難破した。数知れぬ将兵が、船とともに湾の深くに沈んだ。この風雨のなかで,元軍は撤退を決め、沈没しなかった軍船はただちに博多湾を離れた。一夜明けた翌21日朝、大風雨の去った湾上には、志賀島にわず一隻の元船が見られるだけとなる。命からがら浜にたどりついた兵は、たちに捕らえられ、功名のしるして首をはねられた。この文永における元軍の死者は、その数1万3000を超えるという。なお,この日は太陽暦で11月26日にあたり、風雨は台風でなく冬の玄界灘に吹きすさ"季節風”だったとみられる。