元軍ふたたび来襲、弘安の役
台風で大半が海のも<ずに
1281年閏7月1日 北九州 5月以来北九州を襲っていた元軍は、前夜から荒れ狂った大型台風により壊滅的な打撃を受け、海辺には溺死体が山のように打ち上げられている。
今回の元軍は,析都(きんと)・洪茶丘(こうさきゆう)・金方(きんほう)の率いるモンゴル・漢・高麗(こうらい)の連合軍4万2000人・軍船900隻の東路軍と、阿刺罕(あらかん)・萢文虎(はんぷんこ)率いる旧南宋の江南軍10万人・軍船3500隻で、二手に分れて朝鮮と中国江南から出発し、6月15日に壱岐でおちあう予定であった。しかし東路軍が対馬に姿を現わしたのは5月21日で、一部は上陸し殺戮をしたのちさらに壱岐を襲い、6月6日主力は博多湾に向かった。
日本側の応戦体制は万全だった。石塁を見て上陸をあきらめ、志賀島・能古(のこ)島に停泊した東路軍に対し、日本軍は小舟で夜襲をかけた。初めは大きな戦果をあげたが、元軍は船を鎖でつなぎあわせて防戦し,日本側の被害が大きくなった。陸上でも,8日から13日にかけ、志賀島に続く海の中道で大友頼泰(よりやす)率いる豊後武士、安達盛宗(もりむね)率いる肥後武士が奮戦するが、元軍撃退にはいたらなかった。
東路軍は江南軍と合流するため壱岐に引き返すが、江南軍は阿刺牢が急病で阿塔海(あたはい)に代わるなどで到着は7月初旬以降、しかも合流地点は平戸となった。兵14万、軍船4000以上が東進を始めたのは7月下旬で、先頭が博多湾に達しても、後尾はまだ東シナ海という大軍であった。そして7月30日から閏7月1日にかけて台風が襲い、急造軍船はひとたまりもなく兵もろとも海のもくずと消えたのであった。
主力のいる肥前国鷹島に残った船が集結し,萢文虎ら首脳が善後策を協議するが、閏7月5日の日本軍の猛攻で将軍らは兵をすてほうほうのていで逃げ帰る。最終的には14万の大軍はその4分の3を失うにいたる。こうして戦闘は終わるが,御家人(ごけにん)の異国警固番役は続き、,大きな負担を残すことになる。
|