壱岐襲わる。
・・・・壱岐軍は勇敢に戦いました。しかしなんといってもあまりにも少数です。やがて、夜になると、景隆は生き残った兵を集めて、樋詰城に引き上げました。翌15日の早朝、元の大軍は樋詰城を取り囲み、息もつかず攻め立ててきます。力の限り傍線につとめますが、援軍のない景隆たちの敗戦は、もはや時間の問題です。

やがて燃え上がる城の中で、
景隆は家来の宗三郎に、元軍の壱岐襲来を大宰府に報告することを命じて、自害しました。残ったわずかかの家来たちも、全員戦死しました。

日蓮は、「一谷入道御書」という手紙のなかで、対馬・壱岐のようすについて、次のように述べています。

「去る文永十一年十月に、蒙古国から九州へ攻め寄せてきたとき、対馬の者は守りを固めていたが、宗の聰馬ノ尉(宗助国)が逃げたので、蒙古軍は百姓等を。男をば殺したり生け取りにしたりし、女をば取り集めて手をとうして(掌に穴をあけて綱をとうして)船に結いつけたり、生取りにしたりした。一人も助かったものはなかった。壱岐に攻め寄せたときもまた同じであった。」

日蓮自身が、現地にいたわけではありませんから、この記述はもちろん伝聞でしょう。宗兵が逃げたと書いてありますが、これは聞き誤りでしょう。対馬・壱岐の被害は、元軍がこれまで行った殺戮の歴史を考えると、この程度のことはあっただろうと思われます。
(情報源:壱岐の風土と歴史、中上史行著 ページ158)