学門のすすめ

 

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各安楽にこの世を渡らしめ給うことの趣意なり、されど今広く今この人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

 その次第ははなはだ明らかなり。実後教に、人学ばざれば知なし、知なき者は愚人なりとあり。されば愚人と賢人との別は学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり。また世の中にむずかしき仕事あり、やすき仕事もあり、そのむずかしき仕事するものを身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人と言う。すべて心を用い心配する仕事はむずかしくして、手足を用いる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大いなる商売をする町人、夥多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければ、おのずからその家も富んで、下々者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学門の力あるとなきによってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず、ことわざにいわく、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与える者なりと。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして、貴賎の貧富の別なし。ただ学門を勧めて物事をよく知る者は、貴人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり。以下略・・・
この本は日本を全国津々浦々の青少年によって読まれ、そしてこれを読んだ人々に夢と希望を与え、嵐のような反響をまき起こしたのであった。


遺言状
『一つ、死後の計らいの事
 何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰も刳れまいが
友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。
財産はセガレおよび遺族にくれてはいかぬ。彼らがダラクするだけです。
(衣類などカタミは親類と懇意の人に分けるべし、ステッキ類もしかり)
小田原邸宅、家、美術品、及び必要什器は一切記念館に寄付する。これは何度も言った。
つまらぬものは僕と懇意の者や小田原従業者らに分かち与うべし。
借金はないはずだ。戒名も要らぬ。
以上、昭和三十六年 十二月八日
横山 通夫様
松永安太郎様
田中 精一様
井上 五郎様
木川田一隆様
この大締めは、池田勇人氏にお願いする。以上』
亡くなる十年前に書かれた遺書  

人生の大事業
『私の妻は昨秋死んだ。それで一人になると、いろいろな事を考える。
 ・・家内と私は性格が正反対で、それは非常にいいことだった。家内の兄は、後に東邦電力の社長になった人だが、非常に固い人で、その性格を家内も受けていた。私は、この妻の性格によって、大いに助けられたといえるだろう。
 思い起こすと、家内に対しては、相当相済まないこともやった。固い家内のことだから、ずいぶんやかましくて、よくとっちめられもした。だから、私はいくら道楽しても、待合などに泊まるということはなかった。何時までには帰るなどというのは、男の権威にかかわるから、いわないことにしていたが、十二時頃までには必ず帰るようにしていた。遅くなると、やかましく小言をいわれたものだった。・・・
 ・・結婚してから五十四、五年の月日が流れた頃に妻は私に向かって「いったいあなたは、若い時から勝手なことばかりして、人に迷惑ばかりかけてきた。これから先は、なるべく人に迷惑をかけないように大人しくして、世間の妨げにならないような生活の中に、静かに人生の幕を閉じるようになさって頂きたい」といってものだ。
 私は「馬鹿なことをいえ、おまえはそれでよかろうが、俺はそうはいかない。まだやらなければことは、いくらでもある。今ごろからそんな呑気なことをいってはおれん。それよりも、おまえ少し体がよくなったら、ヨーロッパへでもどこえでも、今なら飛行機でいけば訳はないのだから、遊びにいこうじゃないか」という。しかし家内は、そんな事は真平御免で、家に一人でいて、女中相手に掃除でもしている方がずっとよい、といってきかない。・・・四、五年前、羽田から福岡まで飛行機に乗せたことがあるが、その時は非常な決心だったとみえて、遺言状を書いていたことが後でわかった。
 わたしたち二人が考えてきたことは、お互いに人に迷惑をかけないし、人の世話にもならない、なんでも独立でやるということだったが、そういう方針で一生を通してきて、一番困るのは葬式だ。こんな厄介なことはない。・・・
 ・・・骨だけは墓にもっていかぬと親類が文句をいうから、骨だけは埋めておいた。私自身は骨もいらない。私は家内に、「人に迷惑をかけるから決して葬式はせんよ、坊さんはきらいだから、戒名もつけないよ」といっておいた。それでも家内の墓だけはつくっておいてやろうと思って、”千八百八十四年中津に生まれ、千九百四年松永安左エ門に嫁し、千九百五十八年十月死”ということを石に、あとでわからんといけないからローマ字で書いたのをつくらせている。
限りある生命をもちて 限りなき欲を求むる 人ぞ悲しき
付け句
一度ふりむき長居せぬこと(耳庵)

墓石には、”
貞淑慈愛”という松永の字がほりこんである。


電力の鬼

電力の鬼、松永を殺せ
 プラカードを掲げた群集は、東京・築地本願寺の広場に集合する。彼らは電気値上げ反対の決議をして、公益事業委員会になだれ込んだ。松永はこれよりのち、「電力の鬼」と呼ばれるようになる。
劇団「民芸」は三越劇場で公演した「厳頭の女」(久米栄二郎作)で財界の黒幕、松永安左エ門をいかにも憎々しげに登場させた。松永役を演じたのが滝沢修。松永の歩き方まで真似て拍手喝采を受けた。
 
 四面楚歌とは、まさにこのことだ。この頃、松永は部下にしみじみと漏らしている「このごろ真夜中、鏡で自分の顔をつくづく眺めることがあるよ。この老人が何を好き好んで、これほどまでに、人に嫌われる仕事に精根を尽くさねばならんのかとね」・・・・。
しかし、松永は怯みはしなかった。・・・「俗論に耳を傾けるな」と言って止まなかった。「民衆が反対するのは事実が分からないからだ。産業人や政治家が反対するのは、民衆に媚びているからだ。松永を悪く言っておけば人気が良くなるからだ。人を陥れて己のみ良い子になろうとするさもしい根性なのだ。良薬は口に苦い。憎まれ役はわしが一切引き受けるから「頑張れ」と部下を励ました。

・・・自宅に押し寄せてくる客には快く会い、議論をつくす。公益事業委員会で会議を進め、終ると、必要なところへはどこにでも出向く。。。。秘書が過労を恐れて 身体にさわります。休んでくださいとたしなめても「馬鹿者、国の危急存亡のときだ。何を言うか」と叱りつける。雑誌や新聞にどんどん原稿を書く・・・・。「電気事業は自立できなければだめだ。利益が出ず、借金を返済する能力もない事業に、資金が集まるわけがない。ましてや外国資本は集まらない。資金がなければ、電源開発は望めない。電源開発ができなければ、産業は興らない。日本は立ち行かず、国民の生活向上は望めない」

ドンキホーテのごとく突進する松永を、新聞や雑誌は「耳庵院殿俗論放言居士」と名付けた。・・・・・・・・こうして、松永は世間の反対をとうとう押し切り、大幅値上げを勝ち取った。値上げは三度に分けられはしたが、会わせて七割。当初計画どうりの幅となった。

結果はどうなったか。電力需要は年率8%以上の伸びを示し、各地で大規模な電電開発が大いに進んだ。現在はダムは環境破壊の悪役にされているが、戦後の経済発展期に電源開発の果たした大きな役割まで否定するものはいまい。まぎれもなく、電力は日本が世界の経済超大国にのし上がる原動力に、後世は謝すべきである。(情報源:爽やかなる熱情 水木楊著 日経新聞者¥1700 ページ319から)