現代に生きる 時事新報【産経新聞H20('08).11.14(金)】
諭吉の精神込められた「交絢社」⇔4 世に福澤諭吉の3大事業といわれるものがある。近代私立学塾としての「慶應義塾」、中立言論新聞としての「時事新報」、そして紳士社交クラブとしての 「交絢社」。いずれも近代国家建設途上のわが国で初めて誕生した。 3事業には福澤の精神がこめられている。慶應は「独立自専」、時事新報は「独立不羈ー不偏不党」、交絢社は「知識交換 世務諮絢」という理念を掲げた。なぜ、福澤は3事業を興したのか。司馬遼太郎の著作に『「明治」という国家』(日本放送出版協会)がある。司馬が得意とする明治の群像から、坂本龍馬、小栗忠順、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、そして福澤を選び、「明治の父たちは偉大であった」とエールを送る。 ●国に絶望、慶應設立 福澤について、司馬は「福澤は個人の独立があってこそ国家の独立があると考えていて、個人の独立の中身は自由と平等でなければならないと考えていた。つまりは勝や坂本が考えた”国民国家の樹立”だった。しかし福澤は日本には国民国家ができあがる芽がないと絶望し、私塾(慶應義塾)で若人を教える事に専念した」と記す。そのうえで、「福澤は官途には仕えず、三田の山にいたまま、明治政府から無類の賢者として尊敬を受け、明治国家のいわば設計助言者としてあり続けた。小栗忠順は明治という国家の改造の設計者、勝海舟は建物解体の設計者、福澤は新国家に文明という普遍性の要素を入れる設計者であった」と説く。 福澤は個人の自由と平等に基づく明治国家の真の独立ー近代日本の建設のため、まず慶應で「独立自専」の理念の下、英語教育に重点を置いた子弟の教育とリーダー養成を実践した。わが国の近代化の担い手となった多くの企業を興し、実業界に”福澤山脈”と呼ばれるほど多数の人材を輩出した。 時事新報では「独立不羈」を掲げ、新しい国造りと社会改革の進路を示す啓蒙思想家で、ジャーナリスト役を果たした。 ●英での体験が基に 交絢社は実社会に出た人々が紳士的な交際をしながら、互いに切礎琢磨しっつ、社会の先導看たるべき人材、リーダーを育成する−ことを目指して結成された。福澤の念頭には、イギリスで体験した紳士クラブがあったと思われる。明治12年9 月、「知識を交換し世務(天下人生のこと).を諮絢(相談)する」 (設立之大意)と定め、「交絢社」が生まれた。 13年1月、創立時の社員は約1800人。翌14年4月、「新国家の憲法ほ自分たちの手でつくろう」と訴えて、機関誌『交絢雑誌』に発表した「私擬憲法案」は自由民権運動に大きな影響を与えた。「明治14年の政変」で、大隈重信が政府から追放されると、福澤と慶應、交絢社もその一派とみなされた。以来、交絢社は”人間(じんかん)交際”を主に政治に距離を置いた社交クラブを伝統としている。 出版会のホームページで『ウエブでしか読めない近代日本の中の交絢社』を連載している首都大学東京大学院社会科学研究科の住田孝太郎(35)は交絢社にかける福澤の思いについて、「当初は政治的性格がないではなかったが、福澤が”一科一事専門の結社より、人間第一の緊要たる社会結合”といっているように社会結合の結社となった」と記している。 福澤は明治という新国家の近代化を目的としたアドバイザーとして、さまざまな啓蒙、社会教育活動を行う中で、慶應、時事新報、交絢社の”専門結社”を使い分けながら、実践活動を役割分担していたといえる。 =敬称略 (鈴木隆敏)この項は火〜金曜に掲載
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