温故知新
言葉に「愛情」を込める 心から人の幸福を願って
情報源=倫理宏正新聞 平成25年元旦号・・・・朝起き会に誘われて
言葉には力がある、と言われる。たった一言で、さっきまで元気だった人が一瞬にして萎えてしまったり、急に力が湧いたりということはよくあることだ。言葉による影響力は実に大きい。
そしてこれは人だけでなく自然物も同様という。田畑の作物に思い遣るようにあたたかく語りかけると、収穫が増量したり、普段使う機械や道具を労わるように声をかけていると怪我もなく、いざと言う時、その言葉通りに役立つこともある。
会友の体験談には家庭愛和の実例が数多くあるが、まず形からと、家族間の言葉かけを改めている人も多い。それまで顔を合わせても小声でしか言わなかった朝の挨拶を率先して「お早うございます」と明るく行う。何かしてもらったら「どうも」とだけのお礼も「ありがとう」と、きちんと伝える。
間違いをしたら、素直に「すみません」と謝る。そうしてぞんざいだった言葉遣いを丁寧に改めていく。家庭の中で誰か一人が実践し続けると、いつしか雰囲気が明るくなり、愛和に変わっていく事例は枚挙に暇がないのである。
ある調査で、病人の家庭環境を調べたところ、乱暴な言葉遣いや不足不満で罵り会っている家庭が多い一方、笑い声が絶えず、穏やかな言葉の多い家には病人が少ないという結果が出たという。
善い言葉、前向きで明るい言葉を口にすることの大切さを思うとともに、「言葉の力」の確かさに改めて気づかされる。
一般に言葉とは人に意思を伝える道具、コミュニケーション手段と理解されている。しかし古来日本では、言葉を「言霊」と呼び、言葉には魂が宿ると信じられてきた。聖書でも「初めに言葉ありき」とある。万葉集にも「言霊の幸ふ国」とある。
人は昔から言葉のもつ霊妙な力に気づいていたといえよう。しかし、肝心なことは、言葉そのものに良し悪しがあるのではなく、その言葉を発する時の念、「思い」にあるということである。
例えば、本来感謝を示す「ありがとう」でも、ありがた迷惑と皮肉を込めて言えば、人を傷つける言葉になる。逆に、相手をけなすはずの「バカ」も、心からの愛情から発するなら、ありがたいひと言として伝わることもあろう。
要は、言葉にどんな思いを込めるのか、気持ち一つなのである。私たちは自己を磨くため、倫理普及のために会誌頒布に学んでいる。訪問先では多様な人生経験を持つ方に出会い、時に厳しい応対もあり、何を言葉にしていいのか戸惑うこともあるだろう。
しかし、大事なことは、自分なりにではあっても、心から相手の仕合わせを願うことである。「自他一如」の仕合わせをとご指導いただく。人に尽くす誠の心が真実なら、言葉と共に、否、言葉以上に伝わるものがあると学びたい。
元気がない人がいたら、明るく励ましてあげたい。悩んでいる人がいれば、大丈夫と勇気づけたい。その結果として、笑顔になる人が一人でも増えたら、どんなに仕合わせなことだろう。
人を思い遣る純粋な心が言葉となる時、何より自分が喜びを得るのである。新年を迎えた。今年こそと善き希望に胸膨らむ今こそ、善き言葉を遣おう。一語一語に人の仕合せを願う愛情を込めよう。そうした一人ひとりの善き心と言動こそが、社会をよりよく変えていく力となると心したい。
れいめい
こどもの頃に父から「お正月は年神様を迎える日だ」と聞かされて、では年神様はどんな出で立ちでいらっしゃるのだろうか、部屋のどこにお座りいただくのがいいのだろうかなどと考えたことがあった▼これを何とも子どもらしい発想だと思われるかも知れないが、実際には、お正月を迎えるためにいろいろと準備をするのは、すべて年神様を迎えるためのものである。ただ、その意味を正しく理解している日本人が減ってしまっているのは、確かなようだ▼門松は年神様が降りてくる時の目印で、鏡餅は神様に捧げる食べ物という意味がある。そのように知っていくと、かつてのお正月は、家に客人を迎える時の作法にも通じる、とても実践的な行為であったのだと想像される▼それが、社会が合理化さ
れていくに従って、年神様を迎えるという非合理とも思える意味合いがだんだんと忘れられていき、そして今は形だけが残ってしまったのだろう▼しかし、形が残っていれば、「以形整心」とお習いするように、形から入って後からでもそこに込められた心を知ることはできるはずだ。百年経ってもお正月の形が残っていれば、その心を尋ねることはできるだろう▼後世に倫理を伝えていくためには、どうすればよいのか。「実践」という形を残していくことが肝心であるとい
えよう。倫理のいのちは、実践にあるのだからー。お正月は、実践を決意するのにふさわしい時なのだ。
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