第三回 梁川星巌・紅蘭    夫婦の日本史 渡部裕明(産経新聞H25.4.17)

オシドリのように生きた漢詩人


幕末期、漢詩という共通の目標を持ち、変わらぬ愛を貫いた夫婦の姿を追ってみたい。美濃国安八(あんぱち)郡(現・岐阜県大垣市)出身の梁川星巌と紅蘭である。

星巌は美濃の名族・稲葉氏の流れをくむ豪農の出で、子供のころから学問で頭角を現した。江戸に遊学し、故郷に戻ると近隣の子供たちを教えた。特に漢詩に打ち込み、文政元(1818)年には同郷の江馬細香(えまさいこう)らと文芸結社「白鶴(はくおう)社」をつくった。間もなく入門してきたのが、共通の曽祖父を持つ又従兄妹の紅蘭(本名・きみ)である。紅蘭も文芸や絵に優れ、慕いあう関係となった。

文政3年、二人は結ばれた。星巌32歳、紅蘭17歳。当時の社会慣習の中では珍しい「恋愛結婚」といっていいだろう。このころ、儒学を中心とした学問や文化は各地に広がり、漢詩文や南画、俳句をたしなむ商人や豪農が増えていた。星巌のような文化人が、同好の士と交わることで生活できる下地ができあがっていたのである。

これで毎日、幸せに暮らせると思っていた紅蘭に、屋巌は厳しい態度に出る。約半年後、次のように言い置いて一人旅に出てしまったのだった。「留守の間には家事をきちんとやること。また、詩文の勉強も怠るな」1年たっても、夫は帰ってこない。

紅蘭の実家はあきれ果て、離婚を勧めた。しかし、彼女はじっと待つ。文政5(1822)年春、ようやく星巌は戻ってきた。そしで紅蘭の詩文が上達していることを見て、目を細めた。「新婚間もない花嫁に異常な行動ですが、詩文で身を立てるための"自分探し"の旅だったのでしょう。もちろん真のパートナーとなる女性なら、留守の間でも研鑽(けんさん)を積むと信じていたのだと思います」

星巌夫婦に詳しい福島理子・帝塚山学院大准教授(漢文学)は、このように見る。以後、どこへ行くにも二人は一緒だった。九州を旅し、京都や江戸でも暮らした。京都で頼山陽の居宅近くに住んだとき、二人が口論する声が山陽の耳まオシで届いたエピソードもある。鴛鴦(おしどり)のようである一方、「対等な夫婦」でもあったのだ。

しかし、突然の別れが待っていた。京都暮らしの安政5(1858)年9月2日、星巌が流行のコレラのため亡くなった。70歳の生涯だった。未亡人となった紅蘭に、さらなる試練が待っていた。星巌が勤王の志士たちと交わっていたことから、始まった「安政の大獄」で投獄され、取り調べられたのである。許されたのは翌年2月のことだった。

紅蘭はその後も京都で文人と交わり、明治12年まで生きた。故郷の大垣市、曽根城公園には二人の銅像が立ち、夫婦愛をいまに伝えている。



もっと知りたい:星巌の漢詩を扱った本は『日本漢詩人選集17』(山本和義・福島理子訳注、研文出版)など。大垣市曽根町にある華渓寺(かけいじ)は星巌が幼いころ、和尚から教育を受けた寺で、境内に「梁川星巌記念館」があり、遺品などが公開されている(電話0584・81・7535、要予約)。