「法に背いて生き延びるより法を守る」


ソクラテス,死刑を受け入れ毒杯を仰ぐ

紀元前399年6月頃+ギリシア…アテネで,アポロンの生誕祭を祝う使節をデロス島に送る聖船が帰国した日の日没後,ソクラテスの死刑が執行された。彼は友人と弟子の見守るなか,刑吏から手渡された杯の毒人参の汁を飲み,哲学論議をしながら70歳の生涯を終えた。

 石工の父と助産婦の母とのあいだに生まれた彼は,家業を顧みずに議論をして過ごし,生活は弟子や後援者によって支えられたらしい。妻のクサンティツペは悪妻の典型として名高いが,実際は従順な良い妻であったようだ。たとえ口やかましかったとしても,無理はないといえる。

 ソクラテスのポリス市民としての活動はペロポネソス戦争中に重装歩兵として3度従軍したことと,前406年五百人評議会の委員をしたことが伝わっている。このとき、彼は、アルギヌーサイの海戦の責任を問われた将軍たちの裁判で、手続きの違法性を指摘して譲らなかった。また、ペロポネソス戦争は敗北後の三十人僭主政の脅かしにも屈しなかった。

彼は、弟子のもたらした「ソクラテス以上に知恵のあるものはだれもいない」というデルフオイの神託の真意を探るべく著名な知者と対話を重ねていくうちに,
無知の知」という自覚に達した。彼は不思議な人格的魅力を発散して多くの若者をひきつけた。そのなかにはアテネの敗因ともなったアルキビアデスや三十人僭主政の指導者クリティアスもいた。

 そのソクラテスが「国家公認の神々を認めず,新しい神々を導入し,青年を腐敗させている」として告発された。明らかに誣告(ぶこく)であったが,陪審員は281対210で有罪とした。量刑にさいし,ソクラテスは国に貢献をした者として迎賓舘における食事要求した。これが,陪審員の怒り貫い,全員一致で死刑を宣せられた。

彼は脱獄のすすめを退け,なににまして尊厳で聖なるものとしてきた祖国とその法に従って,生涯をささげたみずからの言行を貫いたのでる。この日の姿はプラトンの「フイドン」に感動的に伝えられる。

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