徐福伝説と蓬莱

徐福は秦の始皇帝の苛酷な支配から逃げ出す目的で日本に来たといわれています。古代日本の蝿文から弥生時代の移行と重なる時期である。徐福は「方士(ほうし)』(仙人の術を行い、呪術、医街、祈とう術の修業をした)としてまた儒学をを修め、インドにて仏教を七年間学んだ、秦の始皇帝に仕えて功績があったので、官位が昇進して重要されたという。

秦の政治は、天下を統一して自ら始皇帝と称し自分の思う事はなに一つできないことはないと信するようになった。しかしただ一つどうする事も出来ない不安があった。それは『死』という事だった。

始皇三年の春(BC244)に中国の東方の郡県を巡視して東海を望む。この時に徐福は「東海に蓬莱、という神山がある、これは全世界の大元祖国(おおもとのくに)であって、大元祖宗の子孫の神仙がいて、不老不死の良い薬をもっている、もしこれ飲めば千年の寿命を保ことができる、これを求めて来ましょう」と言った、始皇帝はこれを許可した。徐福はさらに、これを求めるにはかなりの年月がかかる、それに相当する旅費、金、銀、鉄、砂金、珠玉、及び、衣、食器具、五穀の種、と百工の技師(技術者)さらには良家の童男童女500人、大きな船が八十五隻を要すると言った。始皇帝はこれをすべて許した。徐福はこれらの準備を整えて始皇三年六月(BC244)出帆した。

この一行の中には、農夫、大工、壁塗、猟師、紙師、傘張、楽人、衣類工女・酒製造・塩炊、鍛冶屋、鋳物師、石工、諸細工夫、医師、などがいて自給自足ができたようである。さらに徐福は蚕を飼って、糸を造り機(はた)を御女(おみな)などに織らせたという。武内宿祢が大神宮に奉幣に来て徐福の来朝をきき大いに喜んでその門に入って教えを受け、後に一子の矢代宿祢をも門人にした、矢代宿祢は秦人に学んだので姓を羽田と改めたという。

また徐福の長男の福永は父の後をついで姓を福岡と祢し、次男は福島、三男の徳仙は福山の姓を称し、四男の福寿は福田と称したという。

壱岐国の王都、原の辻遺跡から『日本最古の船着き場遺構」が出土した。これは紀元前三世紀の物であるという。徐福が日本に渡った時期とほぼ同じ時代に作られたと思われる田の畔道など高度な技術を駆使したこれらの遺跡は「徐福』が五穀の種をもたらして耕したのではないだろうか?

日本最古の建築の部材などなど輿味は尽きない。原の辻遺跡はそんな雄大なロマンを今に感じさせる。また、石田町に、大字筒城東触字宝来という地があり、この字図を線で結ぷとまるで「壷」のような図になった。これは単なる偶然だろうか?壱岐島という以前、壱岐は、蓬莱島」という名称であったのだろう?

古い書物には壱岐は「玄海の蓬莱島しと記されています。また、風土記の逸文には「常世の塚あり」と記され、今は「壱岐国の一の宮」にあり「淡島様」と呼ばれている社で、「子守の神様」として赤ちゃんの「産着」が奉納されています。つまり壱岐は「常世の国」でもあったということになります。

辞典に「常世と蓬菜は同じ意味」と書かれています。不老不死の仙薬は『月読神社の祭神・月読尊」が持っていたと言われています。壱岐のみなさんの先祖は仙人? 徐福の子孫? 壱岐島の魅力を掘り下げましよう。