最優秀賞
金沢区に思うごと    釜利谷中学校一年 松村 優里子
私達家族が金沢区に引っ越してきて、早、八年近くになろうとしています。その前は、アメリカのニューヨーク州に住んでいました。私達の住んでいた町は、ニューヨーク州のウエストチエスター郡のハリソンという町でした。私のおぼろげな記憶と父が記録しておいてくれた当時のビデオを見ると、駅のすぐ裏には公園があり、そのそばにはきれいな図書舘のあるこじんまりとした所でした。近くには海があり、桟橋からはロングアイァンドに向けてつり船が出る、海と緑に囲まれた美しい町でLた。父は帰国しでから住む所を探していましたが「この金沢区がハリソンに似ていて気にいったから今の家に決めたんだよ。」と言っていました。私はその気持ちがよく分かります。私が小学生のころは、春と秋に家族で金沢自然動物公園にピクニックに出かけ"初夏には海の公園に潮干狩りに連れていってもらいました。又、家の近くには歴史のある称名寺や重要文化財指定の金沢文庫もあります。このような自然と歴史のある金沢区が私はとても好きです。この十年来、金沢区は東京のベッドタウンとして、宅地開発が進められて来ましたが、これらの自然を大切にしながら調和のとれた開発をしていってほしいものです。

今、私の周りでは、さまざまな変化が起きています。その一つは、少子化と高齢化社会の間題です。私が卒業した小学校でも生徒数が大幅に減ってきています。又、私の住んでいる町でもお年寄りの姿が多く、高齢化社会が確実に進んでいることがうかがえます。でも、これは"私達自身の将来の問題でもあるのです。私の家もそうですが、祖父母は別の世帯で暮らしていて、一つの家庭の中におじいちゃん・おぱあちゃんがいて、その知識や経験を次世代のものが生かしていくしくみが失われつつあります。核家族化をもとにもどすのは難かしいので、むしろ、社会金体としお年寄りの知識や経験を生かしてい<"同時にお年寄りが教えるこ之による充実感を持ってもらうようなしくみを作りあげていくことが必要です。又、積極的に社会参加ができる様なしくみを作ることも大切だと思います。一般にお年寄りのための福祉というと施設の充実に気が回りがちですが、それ以上にこういったしくみ作りにこれからは気を使っていかなければいけないと思います。美しい自然と歴史に囲まれた町でも、そこに住む人達が生き生きとLて活気のある顔をしていなけれ蝦蛄ば何の意味もありません。だから、この金沢区が五十年後に活気のある町であるためにはそういったしくみ作りが、これからの区に求められる課題なのではないでしょうか。

優秀賞'
金沢区生まれ育って   金沢中学校一年 大石 歴
僕は、この金沢区の称名寺の近くで生まれ育った。
ー称名寺ー 一二六〇年頃に建てられた寺である。と同時に人々の集いの場でもあった。小さい頃の遊び場であった称名寺も、昔と現在とではすっかり変わってしまっている。例えば、金沢文庫。ほんの七・八年前までは木造の建て物だったのだ。太鼓橋も、現在は弧を描<ように曲がっているが、昔は平らな橋だった。時代は流れているのだと改めて認識する。ただ、今も昔も"人々の集いの場であるということは、変わつていないようである。山の頂上に建っている八角堂。そこからの眺めはとても良く、晴れている日には富士山まで見える。池を泳いでいるアヒルと鴨。以前は、二・三羽しか放されていなかったが、現在では何倍にも増えている。こうして改めて見てみると、,,ふだんは気にしていないようなことが新鮮に感じる。ふと、昔のことを思いだす。家からパンの耳をもって行き、鯉やアヒルにあげに池に行ったこと。アヒルが寄ってきて足をかまれたこと。

春、桜の花びらを追いかけたこと。桜があまりにも綺麗で窓を開け、桜を見ながら夕食を食べたこと。称名寺の裏の山の方に、知る人ぞ知る「八房の梅」という梅林から梅を取ってきて、梅酒を作ったこと。
夏、称名寺周辺は、駅の近辺よりも涼しかった。
秋、称名寺の池のまわりの銀杏をひろうと、怒るおばさんがいたこと。
冬、狂い咲きの桜が美しかったこと。夕方、夕焼けを見に夕照橋に家族で行ったこと。今では、とても昔の出来事のように感じる。

その他にも、展望台のある野島山。たくさんの動物がいる金沢自然動物園。花火大会などが開かれる海の公園。一九九四年にオープンした八景島シーパラダイスなど、数々の名所がある。近代社会化が進んでいる今、この自然の多い金沢文庫は、人々にとって、とても住みやすい場所だと思う。金沢の人々は、きっとこれからも、この素晴らしい金沢の自然を守っていくことだろう。僕は、この金沢で生まれ育ってきたことを、嬉しく、そして素晴らしく思う。この事は、僕だけでなく、この金沢区に住む大勢の人々にも言えることだろう。

金沢区に来て 富岡中学校一年 小早川 裕昭
僕は四月に逗子から能見台に引っ越して来た。でも、逗子から近いし、祖母の家だったので「引っ越し」という感じはしなかった。引っ越してから、あまり海を見ていない。ある時、母が「海へ行こう」と言った。この住宅街のどこに海が……と思ったが付いていくことにした。久しぶりのサイクリングだ。着いたところは砂浜だった。人工のものらしく、すぐそばに八景島が見える。僕は砂浜に座ってみた。確かに海の風が吹く。でも、何か違う。波が、こない。荒れ狂った波が岩壁にぶつかり、すごい音をたてて飛び散り、その周りをとんびが舞うのが「海」だと思っていた僕には、あまりにも静かすぎた。そしてここが相模湾でないことに気付いた。三浦半島の付け根を少し動いただけで、同じ海でも「東京湾」に変わる。帰り掛けに貨物船のようなものを見た。やはり横浜には静かな海が似合っているかもしれない。

岩壁でなく岸壁(コンクリートの壁)に波がぶつかるようになってはきたが。僕は休みの日には、ときどき(外が暖かいときは)ハイキングに行く。金沢区にはハイキングコースがかなりあって、とても便利だ。たいてい能見台二丁目から出発し金沢自然公園・金沢市民の森・自然観察の森というコースだ。家族がいるときはさらに上郷森の家まで行くこともある。(もう栄区になるが)僕が一番好きなのは市民の森から自然観察の森につながるハイキングコースだ。市内でも有数のバードウォッチングのポイントになっている。鳥の鳴き声は心を休めてくれる。どんな都会の人でも、雑木林や田んぼ、あるいは海を見れば懐かしさを覚え、安心した気持ちになれると思う。雑木林も田んぼも海も日本の昔からの風景だ。だから親しみやすいのだろう。しかし、暮らしが豊かになると日本人は普段の生活の中でその風景をだんだん忘れてきている。金沢区でも急速な都市化で田んぼがなくなったことは分かるが、実は残っている多くの雑木林も放置され荒れているのだそうだ。

恐いのは自然への関心がゼロになることだ。そうならないためにも、山や海に出かけてほしいと思う。僕もいろいろな行事に参加してみたい。何もすることもなく家にいるよりは新しい発見ができると思う。ハイキングをするといい点は二つある。一つは普段の生活のストレスを消してくれること、もう一つはまだここに自然が残っていて良かったと思えること、つまり、自分の中に眠っていた風景を呼び戻すことができるのだ。


金沢の自然
小田中学校二年 小川祥子

金沢区には、自然がたくさんあります。私はその壮大な自然の中の一つの、家の近くの桜道が大好きです。春には、桜の木々が淡いピンクの花を咲かせて、道路がまたがるぐらいに枝をのばします。風が吹けば、その道に花びらがまい、誰でも一瞬止まりたくなるような美しさです。しかし、私がこの道を好きな理由は、もう一つあります。それは、私が小学校二年生の時でした。そのころ、私の祖父は病気で、遠くの病院に入退院を繰り返していました。ある日、祖父は、頭を打って病院に運ばれました。母と姉と三人で病院にかけつけると、まだ手術中で、手術は長びきそうだったので、私と姉は家に帰されました。姉はおじいちゃん子だったので、「絶対に帰りたくない。」と言い張りましたが、病院にいてもできることは何もなく、私を連れてしぶしぶ家に帰りました。

家に着くと、姉は自分の部屋にとじこもってしまい、一人になった私は、とりあえず外に出て、一輪車で遊ぶことにしました。しばらくすると、姉が出てきました。そして、何を思ったか、道に舞う桜の花びらを、つかまえようとしました。「何してんの。」と私が聞くと、「桜の花びらを落ちる前に拾えると、願い事が叶うんだよ。」と教えてくれたので、一輪車をやめて、桜の花びら拾いに専念しました。しばらくして、二人の手がピンク色に染まってきたので、私たちは願いをかけました。幼い私たちは、「願い事は人に言うと叶わなくなってしまう。」という迷信を信じていたので、お互いに自分の願いごとをあえて言うことはしませんでした。

でも、あの時の二人の願い事が同じだったという事は言うまでもありません。「おじいちゃんが助かりますように……」次の朝、病院から電話が入り、祖父が助かったと聞くと、私は、すぐに「桜の木がおじいちゃんを助けてくれたんだ。」と思いました。あの時の私には、ただ祈ることしかできなくて、桜の花びらだけが心の支えであり、たった一つの希望のようにさえ思えました。だからこそ、無事の知らせを聞いたとき、すぐに桜の木が頭にうかんだのだと思います。

木というものには、命があります。だから、何かをきっかけに、人間の心の支えになったり、望みであったりすることがあるのだと思います。決して、誰もが経験できることではありません。限られた人にしかできないのです。その点、緑いっぱいの金沢区民の私たちには、その機会が多く、とても幸せだと思います。それに、壮大な自然は人間によい影響をたくさん与えると思います。それは、環境的なことにはもちろん、精神的なことにも、よい影響を及ぼすと私は思うのです。

私は、壮大な自然をながめているうちに、その中にいる自分の小さな存在を感じて、感傷的な気分になることが、度々あります。しかし、その度に、自分がどんなに小さな存在であっても、自分だけに与えられた能力を見つけ、それを活かし、生きていてよかったと思えるような生き方をしたいという。自分の意志を再確認させられます。金沢区には、たくさんの自然があって、区民の私たちは本当に幸せです。私は、これからも、もっともっと自然が増えて、世界で一番幸せな街に、金沢がなることを望みます。

金沢区に望むこと 関東学院六浦中学校二年 土屋 航
僕は金沢区の学校には行っていますが、実は生まれてからずーっと横須賀市民なのです。今までは特に金沢区に住んでみたいという強い理由もありませんでした。というのも、横須賀と金沢区との境界はハッキリしないし、追浜のあたりなら、道をはさんで隣が金沢区という所もたくさんありますから、横須賀市とか金沢区とか意識したこともなかったのです。でも、最近「金沢区に住んでいる人はいいなー。」と少しだけ思うようになりました。それは、僕がインターネットを使うようになってからです。実は、金沢区には、日本でただ一つの有線テレビの回線を利用した安く高速にインターネットにアクセスできるシステムがあるのです。ぼくが、インターネットに入るためには、電話回線とモデムを使っています。これだと僕の好きなホームページたとえば、最新のゲームやアメリカンコミックや、映画の情報を見る時には複雑な画像や動く絵なんかが入っていることが多いので、すごく(場合によっては十分や二十分も)時間がかかります。その分当然電話代がかかるので、いつも母に「あまり長く使わないようにね。」と文句を言われます。もし、これが有線テレビを使った専用線だと、(父の話ですが)伝送速度は、十倍以上は早くなるということですし、料金も格安なのだそうです。でも残念ながら金沢区に住んでいる人しか使えないので、そういう意味では、金沢区の人たちはとても運がいい。僕が、インターネットにこだわるのは、もしかするとこのことが金沢区の将来を左右するかも知れないと思うからです。

確かに金沢区には、まだいくらか自然が残っていると感じています。住む人がもっと増えてきたらこの自然もだんだんなくなってくるはずです。でも、逆に人口が増えなければ高齢化して街の活力がなくなってきます。もし、住む人が増えても働く職場がなければ、昼間は東京や横浜の中心部に人が移動して、ただ夜寝るために帰ってくるだけの街になってしまいます。かと言って工場やオフィスを増やせば逆に住める場所が減って、自然も失われてしまうでしょう。最近は、混んだ電車に乗って何時間もかけて会社に行っても、やっている仕事は、キーボードをたたいて文書を作り、会議をやって、話し合いをするのがほとんどだということです。もし、インターネットが安く、いつでも自由に使えるようになれば、電子メールや電話の機能を駆使することで、会社に出かける必要がなくなるじゃないかと思います。そうなれば、車の利用や電気の利用も減り、炭酸ガスの排出も減って、地球の温暖化も防げるのではないかと思います。

実は、つい最近も父がアメリカに出張に行っている時に毎日のように電子メールで、簡単に連絡をとることができ、時間や距離をまったく感じませんでした。もし、金沢区でインターネットが自由に安く使えるような住宅を家で仕事をする人たちのために優先的に供給すれば、本当に金沢区に引っ越したいと思う人が多くなるんじゃないかと思います。アメリカには、自分の会社に行かないで自分の家で仕事をするSOHOという人たちがたくさんいるという話をTVで見ました。日本もそういう人たちがどんどん増えてきて、その中心地が金沢区であったらおもしろいなーと思っています。

最後に、金沢区役所の人たちに望みます。自然を守って、住む人たちの健康も守るためにも、海岸を埋め立てて、そこにゴミゴミとした工場なんか増やさないで、八景島や動物公園のような人が楽しめる施設をもっと作って料金も安くして下さい。そして、インターネットのような情報網の充実をしたら、きっと二十一世紀には日本の情報発信の中心地になれるんじゃないかと信じています。

金沢区の今と未来 西金沢中学校三年 塩田量平

「人間の体の七〇%は水です。その大切な水を、私達自身の手で今、汚しているのです。大切な次の世代へ、きれいな水を。」これらの言葉は、環境についてのコマーシャルを見たときのものです。これを聞いたとき、僕は、今現在の金沢区の水の状態はどの程度なのか、一体きれいなのか、汚いのか、非常に気になりました。そのため、夏休み中に、いろいろな川の状態を観察してみました。この作文を書こうと思ったのはこの時です。実際の川の水は、きれいとは呼べる代物ではありませんでした。しかし、川には魚がいたことから、その時はそれほど心配はしませんでした。しかし、しばらくすると、川にゴミを捨てる僕達と同じ位の年の人がいて、その後もつぎつぎにそういう人達を見かけました。その様子を見て、僕も今まで彼らと同じようにゴミを捨てていた、その無意識のうちに川を汚すという行為が、実は一番罪なことなんだと痛感したのです。

この今の現状では、とても次の世代へきれいな水を与えていくことは出来ません。それどころか、いつの間にか僕達も、自分で自分の首を締めることになる。ということに気吋きました。しかし、こういったことを、中学生の僕が気付いているのに、大人達は何の対策も設けていないように感じます。確かに、横浜市は"ポイ捨てゼロ運動〃というものを行っているようですが、現実には、あまり効果があらわれてはいません。それは、"ポイ捨てゼロ運動〃を行っているということへの市民や区民の関心がほぼ無いということが言えるからです。本当は"ポイ捨てゼロ運動"があるという事実だけで恥ずべきことなのに、僕達人間は、それにすら気付かず、ただ平凡に毎日を暮らし、ゴミを捨てるという恥ずべき行為を、もはや、日常茶飯事としてしまっているのです。

実際、僕も、恥ずかしいことに環境破壊につながるようなゴミ問題、水への関心が無かったといって過言ではありません。しかし、そうした現状を分かった上で僕達は、老若男女を問わず環境問題全体に目を向け、本当に暮らしやすい毎日になるよう個人個人が関心をもって努力をしていかなければならないのです。しかし、人間とは弱いもので、"弱い自分"に勝つことは容易ではありません。なぜなら、それは自分自身を否定することにつながっているからです。どうしても楽な方に、自分の都合のよい様に、流れてしまいがちです。しかし、"弱い自分〃に勝たなければ、いつかは自分の手で、自分自身を傷つけてしまうことになるのです。それを思えば少しは自分の心にブレーキをかけることが山来るのではないでしょうか。自分を傷つけないということは、相手の立場に立って、ものを考えるということにもつながるのです。つまり、環境を大切にするということは、実は僕達人間を守ることになるのです。

冒頭で書いた、「大切な次の世代へ、きれいな水を。」この言葉は、これからの僕にとっての、そして世界全体にとっての、キーワードとなることでしょう。このキーワードを忘れることなく、僕達は常に生活していかなければならないのではないでしょうか。

佳作

私の大好きな町
金沢中学校一年 金子 友美
私は、この金沢文庫で生まれ、育って来ました。なので、この金沢には私の大切な思い出が、たくさんつまっています。私の家は金沢区の中にいる「柴町」と言う山と海に囲まれた小さな町にあります。この町は漁業がさかんな所で、特に「シャコ」という体長約十p〜二十pの生物がよく取れ、私のおじいちゃんの家も漁業をやっています。今のような柴の漁業の始まりは鎌倉時代からとされています。当時は天然資源の恵まれた沿岸を活用して、一本釣りや潜水、突漁などの方法で生活の糧を得てきました。そして明治時代には漁業組合も、結成され収入も入るようになりました。

昭和に入ると「のり養殖業」も行われるようになり柴の漁業は増々発展していきました。しかし東京湾の埋め立てで、海の汚れはひどくなり、のりの養殖も不可能になると共に魚の数も減ってしまいました。しかしシャコの水上げだけは年々増えていき、今では「シャコ」といったら「小柴のシャコ」と言われるくらい有名になりました。私も何度かシャコの皮むきを手伝った事がありますが、一つ一つ丁寧にむかないとすぐ失敗してしまい、とても難しく、苦労を知りました。このような話の他に小柴にはたくさんの歴史があります。私も何度もおじいちゃんやお母さんから昔の小柴の話を聞いた事があります。特に楽しかった話はアメリカの黒船が浦賀へ行く途中小柴に立ち寄った時の話です。当時、日本の男性の頭には「チョンマゲ」が結ってありそれを最初に見た異人は「日本人の頭にはピストルがついている。」とおどろいて逃げ出したと言う話など。たくさんあります。

私はこのような話を聞く度、柴町の歴史の古さを感じます。私の小さい頃の柴町と今の柴町を比べると、コンビニやマーケット、又八景島やマンションなども出来て、とても活気が出てきました。しかし風景は変わっても一人一人の気持は昔と変わらず、今でも受けつがれている素晴らしい所です。私にとってこの町は最高の居場所です。だから、百年、二百年たっても、ずっとステキな金沢であってほしいと思います。そして私も子供や孫ができたら、「柴町」の事「金沢」の事を、いっぱい、いっぱ
い、話してあげたいです。いい所、悪い所、全部ふくめて、私はこの町が大好きです。

野口英世が結んだ二つの街 金沢中学校一年 加藤甫
皆さんは、この金沢区と福島県の猪苗代町が姉妹都市だということを知っているだろうか。ぼくは去年ソフトボールの合宿へ行き、交流事業をやって初めて知った。そして毎年いろいろな形で交流事業をしていた。ぼくのチームはその交流事業で猪苗代の人たちと試合をした、というわけだ。なぜ金沢区と猪苗代町が姉妹都市かというと、それは野口英世に関係がある。野口英世が生まれたのは猪苗代町でその野口英世が金沢区長浜の検疫所で若いころ医官として活躍していたことにちなんでいるのだ。去年の合宿の帰りにぼくたちは野口英世記念館にも行った。野口英世の背が思ったより低いのが印象的だった。ぼくはもっとくわしく野口英世のことが知りたくなり伝記を読むことにした。

野口英世は生まれたころの名前を清作という。一才頃いろりに落ちて左手に大火傷を負ってしまう。その傷のため『てんぼう』といじめられるがてんぼうと言うヤツを見返してやろうと小学校で勉強にはげんだ。小学校卒業したときは、上の学校へ進みたいと思った。しかし学資が出せなくこまっていたところ、小林先生に出会い学資をだしてもらえることになり、高等小学校に進むことになる。

高等小学校四年の時、清作は、昔動かない左手のことをばかにされたつらい思い出を作文に書いた。このことがきっかけで先生や生徒が少しずつお金を出してくれて、そのお金で手術を受け左手が少し動くようになる。ぼくは、とてもやさしい先生や生徒だと思った。この時清作は独学で医学を学ぼうと決めた。高等小学校卒業後も清作は勉強を続ける。そして東京に出て試験に合格。その後も働きながら勉強した。このころから、細菌学者になろうと考えはじめる。そして名前を英世に変えた。北里柴三郎の推薦で長浜の海港検疫所に着任した。

明治中期の日本は外国との交流がさかんになり、検疫の重要性が増してきた。明治十二年に神奈川地方検疫局長浜所ができ、明治十八年、長浜措置所ができる。そして明治三十二年横浜海港検疫所が常置された。野口英世はここで五ケ月間検疫の仕事をした。当時は長浜検疫所からはすぐ海だった。沖合に停泊中の外国航路の船に小舟で乗り込み患者の有無を調べるのが仕事だった。野口英世はアメリカ丸という船を調べた時、日本初のペスト患者を二人発見した。このことが世界に出るきっかけとなった。

一年後、野口英世はアメリカに渡る。そしてへびの毒の研究などをし、本も出版した。左手が不自由なのに毒をへびから取り出すなんてすごいと思った。そ0後、国際的に有名になっていき、世界のさまざまな学位を受ける。そして、黄熱病の研究にエクアドルヘ行く。すぐに病原体を見つけだし、予防注射のワクチンもつくるが自ら黄熱病にかかって、一九二八年、五月二十一日アフリカのアクラにて病死。五十一才の若さだった。伝記を読んで、野口英世はとてもすごいと思った。小学生のころから夜遅くまで勉強した。猪苗代の記念館で見た英世の家は、かやぶき屋根の農家だった。この家で夜遅くまで勉強していたのだから大変だったと思う。アメリカに留学した時も、朝早くから夜遅くまで研究を続けた。こんなことはとてもぼくにはできない。

ぼくは長浜検疫所跡へ行ってみた。いろいろ資料があった。横浜海港検疫所は昭和二十七年に大桟橋に移転したが、今も一部の仕事は残っているそうだ。昔野口英世は仕事をしていた細菌検査室は、今野口英世の資料館として保存してある。建物は昔のままで、木造だった。約百年前の道具などを見て、野口英世が検査している状況が目に浮かぶような気がした。そして世界的に有名な野口英世が仕事していたと思うと不思議な気がした。