永遠の師、松島國舟先生を憶う

それは「城」と題され、大岡越前守が縁で「ゆかりのまち」となった岡崎市との、友好を深めようというテーマであった。大岡越前守忠相の紹介と忠相自作の和歌「幾千代を」の朗詠に始まり、日舞「岡崎五万石」、剣舞「白鷺の城」、徳川家康公遺訓、和歌朗詠「やはらかき」、日舞、剣舞、合唱、吟詠を網羅した「古城」そして國舟会一門34名の大合吟と納言流の仕舞、ピアノ、琴、尺ハの伴奏による「荒城夜月の曲を聞く」で幕となる、誠に壮大な構成であった。

コンピューターはもとより、ワープロもなかった時代、B4の用紙9枚にぎっしりと手書きで書かれた台本には、國舟先生の熱き思いがたぎっていた。それから10年後、市制施行50周年記念事業を企画する事になった。茅ヶ崎らしさを目一杯追求しようと「波」をテーマにし、「序の波」「破の浪」「急の涛」(序・破・急は、能の基本的な骨格で、作品全体にも、足の運び一つにも「序・破・急」の心がなくてはならないとされる)の三部構成であった。私は何のためらいも無く、國舟先生に全体構成を、総合演出は池上實先生にお願いした。「城」「波」共に、日本全国の市民芸術活動の歴史に残る作品だろう。これらの作品づくりを通じ、國舟先生とは大変親しくお話のできる関係となった。2003年、私が
文団協会長職を拝命するにあたり、無謀にも國舟先生に事務局長をお願いしたところ、快諾を得た。先生は私の事務所を訪れ、「事務局長を受けるからには、文団協の過去の資料に目を通しておきたい」とおっしゃられ、段ボール一箱の資料をお持ち帰りになった。何事にも真撃であり、熱心な方であった。その上、あんなに気さくで優しくて熱意があって…

2005年春、文団協理事長にご就任頂き、今年の市制施行60周年記念、そして2年後の文団協創立50周年記念事業では、中心的なご活躍をと期待していた。國舟先生への期待はそればかりではない。県文化連盟の立て直し、児童生徒お文化面での育成活動、より解放された文化祭の実現など、おおきな課題を担って頂かなくてはならなかった。だが、教職を離れ、ようやく詩吟の道でさらに飛躍しようとの新たな入生の船出の時、思いもよらぬ落とし穴があった。本年1月14日、松島國舟先生の追悼大会が開催された。改めて、先生がこの世にはもう居ないのだという事実を確認しなければならない。余りに残酷な人の世の習わし…心の中で語り掛けた。「ねえ、國丹先生、あんなに詩吟が上手になった小中学生や高校生を、見捨ててしまわれるのですか?「城」と「波」の次の舞台は、一体誰に創れというのですか?」ずっと以前に「教職を離れたら、岩本さんの選挙のお手伝いをしますよ」との一言を、私はずっと忘れていなかった。照れ屋の國舟先生は「そんなコト、言ったかなあ…今はまだ忙しくて…」私は他の方にお願いすることはせず「國丹先生に受けて頂けないのなら、後援会長は空席にします。」この戦略に、「名前だけだよ」と、ようよう後援会長をお引き受け頂けた。ところが名前だけどころか、私本人よりも一生懸命の選挙応援。そのお陰で、ーケ月しかなかった県議選で奇跡の当選をもたらして下さった。開票当日、松島先生は開票所まで赴いて下さり、当選が確定した瞬間、大きな涙を流して喜んでおられたと、側に居合わせたスタッフがそっと教えてくれた。私も、國舟先生のすばらしい出来事に涙したかった。悔しさ、残念さ、無念さ、父や母を失った時よりも衝撃的な哀しみ…そんな理由で号泣させられるなど、未だに信じたくは無い。私の後援会長は、永遠に「松島國舟先生」である。(黙祷)