第二回目の訪日(1956年、第三回目は1967年=ご夫妻で参拝)の時伊勢神宮を参拝。貴重な写真


・・・・・・トインビーは、先にあげた「日本の印象と期待」の中の引用で、「奈良の春日大社や、とりわけ神道の聖地の中の聖地である伊勢皇大神宮で」「神社に参拝する人々を生き生きとさせている、より強い宗教精神を感じた」と述べている。実は、彼が「より強い宗教精神」と言っている、その内実を明瞭にする素材が幸いに残されている。これは、彼の神道観を見る上で極めて重要であるから、その考究を以て、本稿のしめくくりとしたい。

トインビーは第二回目の訪日(一九五六年)の際、松本重治の案内で伊勢神宮にみえている。第三回目は一九六七年である。この時は夫妻で神宮に参られた。当時、伊勢神宮の禰宜であった萩原靖雄氏が通訳にあたられ、万事お世話申し上げた。本稿のために、宇治橋を渡られる時の写真に添え、一九八八年六月一二日付で一文を草して下さったので、それを左に綴らせていただく。
一枚の写真                           萩原靖雄

 昭和四十二年十一月二十四日、アーノルド・J・トインビー博士御夫妻が神宮に参詣されました 折、私はご案内する幸運に恵まれました。
 傑出した偉人や人格者に触れること、いわゆる馨咳に接する事が、いかに深い意味あいを有する ものであるか、古くから云いふるされたことでありますが、二十年以上経った今日でも、この日 の博士ご夫妻の謹厳且つ請々たる挙措は、私の心をとらえてはなしません。 この一枚の写真は、博士が私共と怒熱な挨拶をかわしてから、内宮へ参入すべく、宇治橋へ一歩 をしるした折のもので、左手に清潔な中折帽をかるく支え持っておられるのが、よくわかります。

 大御前においては、乞われるままに、記帳簿に署名されましたが、例の
「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」
は、博士が、ものの十秒ほど、しずかに息をととのえられたのち、やおら毛筆をおろされるや、いささかのよどみもなく綴られたものであります。 博士は宇治橋から退出するまでの間、左手あるいは右手へ持ちかえられる事はあっても、ついに一度もお帽子をかむられませんでした。

敬虔な態度を終始くずされなかったその姿は、観察者としてのそれではない。「神を追い求めてやまない」歴史家の求道的態度から、「聖地の中の聖地」と感じとられた伊勢神宮の神域での、いわば宗教体験の告白である。それが神楽殿の記帳簿に残る揮竜に結晶したものであると私はとる。
「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」と訳せる、この一文をめぐって縷々思いをめぐらさずにはおられない。
(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 P-250〜)

・・・人間の生命体次元における欠陥は、死によって挫折するまで続く自己中心性にあるとトインビーはいっている。それは、まさしくである。これを克服するのは宗教と哲学の任務である。なかんずく、宗教は、自己超出の欲望を愛と総称し、愛の修練を提示する。ただし、このような愛は、ギリシアの神エロス、ユダヤ教のような人格の神とは考えられない。愛は超人的な精神として、人間と生物を動かし、かれらを自己犠牲を受容するまでに変ずるものである。つまり、愛は、人をして「人を助けしめる精神的高揚」であり、この精神において人格性は超出され神と人間とは一体となる。・・・・・・キリスト教の普及以来、ヨーロッパはもちろんのこと、世界の大部分からこのような人間精神の自然に即した精神生活は消え去ってしまった。ヨーロッパの苦悩はここに根ざしている。・・・・・・・彼の神道観は、ここに至って、人類に普遍的な宗教的感性としての神道という文脈において顕在化し、貴重な神道観となったと言えるように思う。

情報源:トインビー著・1967年刊行・経験(Experiences,1969.Oxford Univ,Press)の第九章「宗教ー私の信ずるもの 信じないもの」から & 「トインビーにおける神道観の展開」・戸田義男著から人間と文明のゆくえ。から一部引用(P-234)