極東国際軍事裁判所『陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に記念館として保存』されている。


パール判事め慧眼
 東京裁判の判事で唯一の国際法専門家だったインド代表のパール氏は判決文(意見書)の最終章である「勧告」で、「本官は各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張する」と全員無罪を主張した。「裁判を仕組んだ側の連合国当局の驚愕と狼狽は言語に絶した」 (日本側弁護団副団長の清瀬一郎氏)とされるパール判決文と日本での講演から、主要な部分を抜粋する。

【パール判決文】
「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面をはぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神は、そのはかりを平衡に保ちながら、過去の賞罰の多<に、そのところを変えることを要求するだろう」「戦勝国は、敗戦国に対して、憐憫から復讐まで、どんなものでも施し得る立場にある。しかし、戦勝国が敗戦国に与えることのできない一つのものは正義である。少なくとも、もし裁判所が法に反し、政治に根ざすものであるならば、その形や体裁はどう繕っても、正当な裁判とはいえない」もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においてはこの原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、およぴ第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである」「本件の被告の場合は、ナポレオンやヒトラー(など独裁者)のいずれの場合とも、いかなる点でも、同一視することはできない。

 ★日本の憲法は完全に機能を発揮していた。元首、陸海軍および文官は、すべての国家と同様、常態を逸しないで、相互関係を維持していた。(中略)今次行われた戦争は、まさに日本という国の戦いだった。これらの人々は、なんら権力を憲章したものではな<、国際的に承認された日本国の機構を運営していたにすぎなかった」 【日本での講演】
 ★「私は日本に同情するがため、かの意見を呈したのではない。私の職務は真実の発見である。真実を探求した結果、かような結論になった」 (昭和二十三年、東京弁護士会での講演)
 ★「日本とドイツに起きたこの二つの国際軍事裁判を、他の国の法律学者がこのように重大問題として真剣に取り上げているのに、肝心の日本において、これが一向に問題視されないというのはどうしたことか。これは敗戦の副産物ではないかと思う。米国の巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、バックポーンを抜かれて無気力になってしまった」 (二十七年、大阪弁儀去ちの講演)

 ★「一九五〇年の英国の国際事情調査局の発表による東京裁判は結論だけで、理由も証拠もないと書いてある。(中略)私一人は無罪と判定した。私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら覿明していないのである。おそら<明確にできないのではないか」(同年、広島弁護士会での講演)
 ★「米国は原子爆弾を投下すべき何の理由があったであろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができていた。(中略)これを投下したところの固から、いまだかつて真実味のあるざんげの言葉を聞いたことがない」 (同年、広島での世界連邦アジア会議での演説)

 ★終戦から六十年を迎える今も、日本人の意識は「過去の日本=悪」とみなす東京裁判史観から脱却できず、その思考パターンが外交や安全保障、教育などさまざまな分野に影響を及ぼし続けている。それほどまでに日本を呪縛してきた極東国際軍事裁判(東京裁判)とは一体、何だったのだろうか。東京裁判を実行した連合国軍総司令部幹部や戦勝国の判事ですら、やがて正当性と意義を疑うに至った「勝者」による「報復の裁き」、を検証する。
       (阿比留瑠比、加納宏幸)

ラダ・ピノード・パール氏
1886年、インド・ベンガル州に生まれる。カルカッタ大を首席で卒業後、インド連合州会計院勤務、アンナダモハ
ン大数学教授などを経てカルカッタ大法学部教授(後に総長)。1946年にネール首相の指名により極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事に任命された。裁判終了後はカルカッタで弁護士を務めたほか、ハーグの国際仲裁裁判官、ジュネーブの国連司法委員会議長などを歴任。日本政府からは勲一等瑞宝章を受けた。1967年1月、カルカッタの自宅で亡くなった。