産経新聞特集記事、日本を探す(文化)・・・伊勢神宮(2から4) (桑原聡記者の感性を共有させていただきます。一の宮巡拝会の心として、・・・産経新聞愛読者として感謝いたします。
伊勢神宮2
畏れ多き心の御柱
 厳粛さを絵に描いたような、神々に食事を奉る祭り日別朝夕大御饒祭(ひごとあさゆうおおみけさい)を終え玉砂利を整然と響かせて去りゆく神職を見送り、正宮を参拝した。正とばむ殿は白絹の幌(とばり)の向こうに鎮座し、その姿を直接見ることはかなわない。

「なぜ正殿を見せないのですか」
何気なく神宮司庁の木田雄介さんに尋ねた。
「畏れ多いからです。また、神様は見るものではなく、感じるものではないでしょうか」虚を衝かれた。と同時に【そんなことも分からず伊勢神宮にまでやってきたのか】と、自分に対して深いため息が出た。

西行(1118〜1190年)が伊勢神宮で詠んだと伝わる歌がある。《何ごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる》僧である西行は、神域に入ることがかなったのか? いずれにしろ、何か大きな存在を感じ、畏れ多くて涙がこぽれると詠っているのだ。そういえば、松尾芭蕉(1466〜1694年)も一六八九年、遷宮の年に伊勢神宮を訪れ、西行を偲ぶ句をいくつか残している。《何の木の花とはしらず匂哉》西行の歌をふまえた句であることは明らかだろう。目には見えない存在を、花の匂いにたとえる芭蕉のセンスに脱帽しながら、合理主義と物質主義にどっぷりとつかり、そこから抜け出せない自分をつくづくと感じるのであった。
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 正宮の左側(西)には、白石が敷き詰められた空き地がある。二十年ごとに行われる式年遷宮で新たな正殿が築かれる場所だ。この空き地の奥の方に百葉箱のような建物がある。心の御柱(みはしら)の覆屋(おおいや)である。覆屋を指差し、「あそこに心の御柱が置かれるんですよね」と木田さんに声をかけると、「口にするのも畏れ多い」と口ごもった。

 心の御柱とはいったい何か。これが極めて謎めいているのだ。実物を見た人は稀であり、見たとしても畏れ多くて他言をはばかるという。伊藤ていじ氏(建築史)の論考によれば、
@ヒノキの柱で、その大きさは内宮で長さ百八十センチ、直径二十七センチほど、外宮で百五十センチ、十二センチほどAヒノキは神宮域内の山で夜間に採取され、白布、清筵(きよむしろ)清薦(きよこも)でおおわれて御倉に納められるB正殿完成後、夜間に埋められるC内宮ではすべてが地中に埋められているが、外宮では地上に突き出ているD柱を支える基礎に内宮では厚板、外宮では礎石が置かれているE覆屋は外壁を構成する柵の半分以上は地中に埋められているF覆屋のいわいべ中には榊と祝部土器が納められているG内宮の御やためかがむ神体である八腿鏡は、柱の真上にある正殿に祀られているH柱は正殿の正中心を意図的に外しているーという。

 心の御柱が何を意味するのか、古くからさまざまな説が唱えられてきた。確かにきわめて興味深いテーマではある。しかし、「□にするのも畏れ多い」という木田さんの言葉に触れてこう思った。ちっぽけな人間があれこれ詮索するよりも、謎は謎のままおけばよい、と。雲間から漏れる日差しに冷え切った体がほぐれてゆくのを感じた。
(桑原聡)=木曜日掲載
写真:外宮の正宮に参拝する人々。白絹の幌の向こうに正殿が鎮座する


日本を探す 伊勢神宮3
理由なんていらない。
俗界と内宮(ないくう)をつなぐ宇治橋を渡りながら、式年遷宮について考えた。七世紀後半に再建されたといわれる法隆寺の金堂や五重塔は、当時の姿をそのまま現在に伝えている。千三百年以上も風雪に耐えうる高度な木造建築の技術が当時のわが国にはあったのだ。それにもかかわらず、なぜ天武天皇(?-六八六年)は二十年に一度、正宮(しようぐう)の隣の宮地に新社殿をそっくり同じに建てて御神体を遷(うつ)すこと、つまり式年遷宮を定めたのだろう。

 かつて文明史家のアーノルド・トインビー氏が伊勢神宮を訪れたさい、ギリシャのデルフォイやイタリァのアッシジと同列に並べる発言をしたことがあった。

 これに対して居合わせた歴史学者の田中卓氏は、デルフォイが廃虚となっているのに対して、伊勢神宮は創建から一貫して生命を保ち続けており、同列に論じることはできない、という趣旨の反論をした。なるほどと思う。神を祀るため堅固な建造物を造ったところで、時間のヤスリによって建造物は摩耗してゆく。ましてや、その神を敬う人々がいなくなれぱ、建造物は確実に廃虚と化す。永遠の生命を与えるには何が必要か? 天武天皇はそう考えた末に、式年遷宮を編み出したのではないか。
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 内宮の御手洗場で両手を浸し、すくった水で口元をぬらす。清冽(せいれつ)な五十鈴川の水が何よりもありがたく感じる。そうして、神宮司庁に向かった。「二十年に一度遷宮が行われる理由について、さまざまな説が唱えられています。神宮司庁の公式見解はあるのですか」広報課の石垣仁久さん(43)に尋ねると次のような答えが返ってきた。「神宮司庁の公式見解はありません。私たちは『延喜式』に記載されている通りに行っているだけなのです」

 「延喜式」は養老律令(七五七年施行)の施行細則を集大成した法典。醍醐天皇の命により九〇五年に編纂が始まり、九二七年に完成した。「巻第四」にこうある。「凡太神宮。廿年一度造替正殿宝殿及下幣殿。皆採新材構造(大神の宮は二十年に一度、正殿、宝殿および下幣殿を造り替えよ。すべて新材を採りて構え造れ)」そこに理由など何も書かれていない。「形に従い、繰り返すことが大切なのです。そうすることで、おのずと分かってくることがあると思います」と石垣さんはいう。
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 天武天皇の命に従って初めて式年遷宮が挙行されたのは六九〇年のこと。天武天皇の妻の持統天皇(六四五-七〇二年)の時代だ。以後「延喜式」の命ずるまま受け継がれてゆくが一四六二年に四十回目が実施された後、百二十三年の空白が生じる。応仁の乱から始まる戦乱の世が原因だ。四十一回目が行われたのは一五八五年のことだ。これは天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉の寄進に負うところが大きい

 しかし昭和二十年の敗戦で式年遷宮は再び危機を迎える。敗戦後の混乱と、伊勢神宮が”国"から"民"へ移管されたことが原因だ。本来ならば二十四年に行われるはずが、資金も足りず中断せざるを得なくなった。ただ、老朽化した宇治橋だけは《放置しては危険》との判断から架け替えた。これが大きく報道され、式年遷宮の中断を国民の多くが知ることとなった。「敗戦で打ちひしがれていた日本人のDNAが目覚めたのでしょう《何とかしなくては》という声が全国に広がり、莫大な募金が寄せられたそうです。そして四年遅れの二十八年に無事、式年遷宮が挙行されたのです」1(石垣さん)

 次の式年遷宮は平成二十五年。六十二回を数える。その準備はすでに昨年から始まっている。文桑原聡、写真吉澤良太
写真:
新御敷地(みしきち)から臨む内宮の御正殿
内宮の御手洗場。神路山に発する五十鈴川の清流がすがすがしい


日本を探す  伊勢神宮4
世代つなぐ、20年の鎖  
二十年ごとに行われる式年遷宮では、内宮(ないくう)と外宮(げくう)の御正殿と十四の別宮(ぺつくう)が新たに造営され、宇治橋が架け替えられる。古材のすべては全国の神社に引き取られ、"第二の人生"を送ることになる。ちなみに名古屋の熱田神宮社殿の前身は、昭和四年に造営された内宮の御正殿である。

 一回の遷宮で使用されるヒノキはおよそ一万本。当初は神宮の背後に控える山(宮域林=ぐういきりん)から供給されていたが、鎌倉中期までに採り尽くしてしまう。それ以降、供給地は神宮の脇を流れる宮川の上流、木曽川中流部の中津川へと移り、明治になってからは皇室財産である木曽谷の御料林(現在は国有林)から供給されるようになった。

 「実は、今回の遷宮は画期的なんですよ。およそ七百年ぶりに宮域林から御用材が供給されることになったのです」神宮司庁営林部の村瀬昌之さん(51)は、淡々としながらも誇らしい調子で話を切り出した。
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 かつての宮域林はヒノキこそ供給できないものの、常緑広葉樹が自然に育ち森を成していた。ところが、江戸時代にその姿を大きく変えてゆく。群衆が周期的に伊勢へ押しかける現象、お蔭参りの影響である。木々は煮炊きに使用する薪として伐採され、明治時代にはほとんど裸に近い状態となる。その宮域林を豊かな森に戻そうと、大正十二年に森林経営計画が策定され、ヒノキの植樹が始まった。二百年後に御用材の供給地とすると同時に神宮の尊厳の維持、五十鈴川の水源の涵養という目的を併せ持った遠大な計画で、これまでに二十五万本が植樹された。遷宮が二十五回可能な本数だ。つまり五百年分のヒノキが植えられたわけだ。現在は、二十七人の営林部員が五千五百ヘクタールの山林の世話をしている。

 植樹が始まって八十余年・・・。ついに直径三十センチから五十センチの間伐されたヒノキが、御用材の一部として使用されることになったのだ。ところで、二百年先を考えながら、村瀬さんはどんな心持ちで仕事をしているのだろう。「自分を起点とした場合、結果が出るのは七世代後です。どう頑張っても、二百年が百年に縮まることはありません。結局、ご先祖さまや先輩のしてきた仕事をきちんと受け継ぎ、そのうえで自分に何ができるかを考え実行する。そして次世代に自分の経験を伝えてゆく。仕事とはそういうものだと思います」分単位で株の売買を繰り返すデイトレーダーは、村瀬さんの話をどう聞くだろう、と思づた。
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 神宮司庁を後にして、伊勢商工会議所に向かった。伊勢神宮奉仕会青年部長の平松隆太さん(四二)に会うためだ。平松さんは、御木曳(おきひき)という行事に参加する観光客の安全を担う人物だ。御木曳とは、伊勢に届いたヒノキを宮域に曳き入れる行事。旧内宮領には十九の奉曳団(ほうえいだん)があり、それぞれがヒノキをソリに積んで五十鈴川を内宮までさかのぼる(川曳=かわぴき)。旧外宮領には五十八団体があり、奉曳車に乗せて町中を外宮まで曳く(陸曳=おかぴき)。陸曳は今年の五月から六月にかけて、川曳は今年七月下旬に行われ、来年には第二次御木曳が予定されている。本来は神領民の務めであるが、近年、観光客もこの行事に参加できるようになった。

 「前回、二十歳そこそこの私はわけも分からず参加しましたが、今回は自分自身が父の世代と子供の世代をつなぐ役を果たさなければという自覚はあります。世代をつなぐという観点から考えると、二十年というサイクルは絶妙ですね。十年では短すぎるし、三十年では長すぎる。こうしたことは、伊勢神宮の神領民だからこそ実感できることで、ありがたいことです」と、平松さんは神妙な面持ちで話す。

 あえて「神領民であることは誇りですか」と問うと、平松さんは即答した。「もちろんです。日常生活の中に伊勢神宮があることで、折々に祭りや行事に触れることになります。そうするとおのずと、自分は生かされているんだ、自然の恵みに感謝しなければという思いになってくるんです」取材の礼を述べ席を立とうとすると、平松さんは念を押すように言った。

《おきひき》です。《おきびき》じゃありませんから。そこのところをよろしく」  (桑原聡)
=次回のテーマは「戦国と品格」です。
写真:
そろいの法被でヒノキを積んだ奉曳車を曳く奉曳団の人々=21日、
三重県伊勢市(撮影・吉澤良太)
伊勢神宮奥の宮域林で行われた植樹祭。関係者約200人がヒノキの苗を植えた4月19日