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 ナムチ、大国主命)の御子である。建御名方命は、『古事記』には、出雲稲佐浜の国譲り」に反対して鹿島の神、武甕槌命と争い破れ、「スワ退散?」と諏訪まで逃げ降伏したとある。しかし、日本書紀は
、この事に触れていないが、タカ派であった。この事に執れていないが、タカ派であった。一方の兄君、事代主命(恵比寿天)は従順に高天原からの要求に従ったハト派であったという。

☆ 建御名方命の母君は高志国(越後)沼河比売命(ヌナカワヒメ、奴奈川姫)。この縁か。現在、新潟県には諏訪神社が1500社余あるという。諏訪神社は日本海沿岸から姫川や信濃川を遡って信濃諏訪の地に進出した出雲族の祖神である。

☆地元豪族との融合 諏訪神に対して地元の豪族、洩矢神の後裔、守屋氏は上社の神(シン)長官として奉仕してきた。
この神長官の上司として諏訪神の子孫、神氏(カミ)が大祝職(オオフリ)を努めていた。
諏訪湖周辺や霧が峰高原の山地から石器の矢尻等がが出土する。洩先の神は文字どうり先住の狩猟民族と見なされる。
農耕や殖産の当時の先端生産技術をもたらした諏訪神が新たな祖神として、信仰の対象となり、一の宮とされたと見なされる。

●創建年代は明らかではないが、延書式内、上社は国幣の明神大社。天歴2年(948〉、正一位。下社 貞観9年(867)3月、正二位。明治4年(1871)、国幣中社。大正5年(1916)、官幣大社。戦後、宗教法人として信濃国一宮諏訪大社と改称。

●武神 平安末期以降、武人の守護紳として崇敬されてきた。「関より東の軍神(イクサガミ)鹿島、香取に諏訪の宮といわれていた。鎌倉幕府から神領地の寄進もあり、近世では徳川将軍家から上杜一千石、下社五百石の朱印領寄せられた。これは、一宮の中で も相当な優遇である。 甲斐の武田家の崇敬も高く、戦国時代、信濃へ侵攻した武田信玄も信仰していた。甲斐 武田の旗印は「風杯火山」とともに「諏訪法性南宮上下大明神」を掲げた。

 ●社殿 上社本宮は本殿としての建物はない。守屋山麓のうっそうとした森林の前に幣拝 殿がある、前宮は本宮に近い茅野市宮川にあり、守屋山の北麓にある。諏訪大社上社前宮跡で、このあたりは神原(ゴウハラ)とよばれ、上社大祝代々の居館があったところであ り、「神穀」とされ、重要な神事が行われていた。現在、前宮本殿には妃神八坂刀売命が 祭祀され、本殿に接する東側の古墳は諏訪神の神陵の跡と伝える。 下杜春宮・秋営も拝殿の背後に宝殿2棟が並び、後方に神木があるが本殿はない。