宗教、このうえもなく恐ろしいもの
              
 
宗教とはいかなるものか。宗教とは畢竟(ひっきょう)(つまり)、このうえもなく恐ろしいものなのだ。これが宗教理解の要諦(大切なところ)である。そして、アメリカやヨーロッパではこれが常識なのである。ところが、日本人は宗教を自分や周囲の人間に幸せをもたらしてくれるなにやら素晴らしいものと独り合点しているようだ。その抱いている宗教家のイメージにしても、穏やかで美しくて、普通の人間よりは遥かに道徳水準が高くて、ちょっと煙たくて嫌らしいところがあるかもしれぬが、中身は高潔な人、と捉えている。これがまあ一般的なところだろう。「この頃の宗教団体はがめつくなってきているから、多少の金の巻き上げ程度はやるかもしれないが、本当に悪いことはやらないだろう」と思っている。

 サリンを作るなんて! 
 麻薬を作るなんて−   
 人を殺すなんて!

 あの事件が起きるまでは、そんなことだけはやらないだろうと思っていただろうし、いまに至ってもあれは特殊な例だと思っている人がきっと多かろう。しかし、これこそが宗教誤解の第一歩である。 日本の宗教学者も宗教評論家も、果ては行政や警察も、根本的なところで宗教というものをご存じない。くどいほど何度も繰り返すのは、日本人が物事を表層的にしか捉えないことが多いからである。
    
一例を挙げる。
                   
 一五世紀から一七世紀後半にかけての大航海時代、コロンブス(イタリアの航海者。1451頃〜一五〇六) やマゼラン (ポルトガルの探険家。一四八〇頃〜一五二一)が未知の国へ向けて航海した。
                   
そこで新大陸に上陸した彼らは一体何をしたか。     
 正解は、罪もない現地人の塵(みなごろし)−・大虐殺である。別に住民たちがこぞってこの侵入者たちを襲ったわけでもないのに。何と酷いことをするのだ、と怒ってみても詮はない。侵入者たちのほうからすれば、キリスト教の教義に従って異教徒を殺したまでなので、後ろめたさなどあろうはずもないのだ。

 筆者がかつてカリブ海の仏領(フランス領) マルティニーク島に行ったときのこと、大ナボレオンの妻ジョセフイーヌの故郷であるこの島の観光案内にはこう書いてあった。
「フランス人がこの島に上陸したとき、まずやったことは住民の皆殺しだつた。生き残った者は一人もいなかった。それから、アフリカから奴隷を連れて来て植民地を作った」と。正式の観光案内にそう書いてあるのだ。誰もが知っていることだから、隠す必要がない。また、欧米人は、宗教とはそういうものだと承知しているから、ことさら隠す必要もないのである。
       
 プエルトリコの軍事資料館には、コロンブスが上陸した頃、この島の現地人をどのようにスペイン人が扱ったか、その図解が展示されている。現地人たちの首と両手両足を切り落とし、串ざしにして豚の丸焼きのごとく焼肉とした。まさに目をそむけずにはいられない残虐さだ。 こんな例は至るところにある。
 
「未開の地」に上陸したヨーロッパ人は、冒険家も宣教師も、罪もない現地人をバリバリ殺した。殺裁につぐ大殺我である。ではなぜそんなことをしたのか。何故に異教徒を殲滅(みなごろし)しなければならなかつたのか。その答えは
『旧約聖書』の「ヨシェア記」を読むとわかる。

 神父も牧師も、日本にキリスト教を伝えるものは、パウロの「ローマ人への手紙」だとか「創世記」の一部(もっとも第一九章三〇〜三八は近親相姦のストーリーだから教えないが)だとか、
日本人のセンスに都合のいい箇所は教えるけれども、「ヨシュア記」は教えない。だが、この「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。 神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。 神の命令は絶対である。絶対に正しい。

 となれば、異民族は皆殺しにしなくてはならな。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件(くだり)がやたらと出てくる。
        
 「イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった」(第八章 二四〜二六)
            
 これがジエノサイド(民族鏖)事始。それから後は、殺すわ殺すわ、王とその町の住民を一人残らず鏖にするのである。女も男も、生まれたての赤ちゃんからヨボヨボの老人まで、例外はない。鏖にせよ! というのが神の命令だからだ。
このようにして、三一の王とその町々がジエノサイドされたのであった(「ヨシュア記」第八章〜第一二章)。

 異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。神の命令だから虐殺する。日本のクソ真面目な歴史家は、大航海時代の歴史を書くときに「こんな善良な人々が、なぜこんな恥知らずな殺戮行って良心が痛まないのか」と妄説(でたらめな説)を吐く。そんなもの、痛むはずがないのである。敬虔であればあるほど、異教徒は殺さなくてはならないのだから。 この意味においてはキリスト教は殺人宗教ではないかー
               
 キリスト教は、「隣人に対する無条件の奉仕」を説く。この教義どおりに、無報酬で、全く見知らぬ人にかぎりなき奉仕をした人は実に多い。これも神の命令であるからだ。が、無条件にジエノサイドする人も多い。「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が、同時に大虐殺 を行っても矛盾ではない。両方とも
神の命令であるからである。    

 「これほどまで崇高な人が、最低倫理以下のことをするとは・・・」と嘆くのは日本人の妄言(でたらめな言葉)であり、キリスト教への無知を告白するだけである。このことを、宗教を考える糸口としてみよう。

宗教とは何か
   
 
宗教の定義というのは、実はものすごく難しい。 本書では、このことを考えるのに、マックス・ヴエーバーの説を採ることにする。 マックス・ヴエーバーはかくいった。宗教とは何か、それは「エトス(Ethos)」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり、行動のパターンである。人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語でエトスという。英語では、エシック (ethic)となる。
                                
 ここで注意を一つ。英語の場合、どこに注意するかというと、語尾に S がないこと。S があったらエシックス (ethics)となり、「倫理」という意味になる。 倫理というのは、ああしろこうしろという命令もしくは禁止を指すが、その上位(一般)概念であるエシックはもっと意味が広い。禁止や命令も含むが、さらに正しいだとか正しくないだとかいうことも含む。そればかりか、さらに意味は広く、思わずやってしまうことまでも含むのである。
 
 例えば、朝起きたときに、ある人は水を三杯飲むとする。そんなことはよいとも悪いともいえないけれど、必ず飲むのであれば、それは一つの行動様式。そういうものを含めてエシック、すなわちエトスと呼ぶ。
    
 これは倫理道徳も習慣風俗も全部含んでいる。無論、正しくないということも含めて。人間の行動様式のなかには正不正ということと関係はないけれど、なんとはなしにやってしまうことがある。その中には習慣風俗もあれば、その人独特のことというのもある。

 癖を例にとるとよいかもしれない。癖にも習慣風俗と関係のある癖もあるが、全く関係ない、その人だけがなんとなくやってしまうという癖もあるわけで、エトスとはそういうものも含んでいるのだ。         
                                   
 ここから導けることで大事なことがある。日本人は無宗教だといういい方をするが、どこかの特定の宗派に属していないだけで、その日本人もエトスたる独特の行動様式は持っている。したがって、日本人にも宗教たる独自の行動様式があるはずだというふうな解釈が可能である。これが、山本七平氏(評論家。一九一二〜九一)のいう「日本教」たるものの、その社会学的位置づけである。
          
 なぜヴエーバーの定義がいいのかというと、宗教だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈できるところにある。どういうことかというと、マルキシズムも宗教である。資本主義も宗教である。そして、武士道などというのも一種の宗教だといえる。
           
 そのように考えると範囲がべらぼうに広がってしまうので、本書では、世界三大宗教といわれるキリスト教、仏教、イスラム教、それと日本人になじみの深い儒教について論を進めることにする。

 また、「日本教」「神道」あるいは「天皇教」という日本独自の宗教形態については、また独立した徹底的な議論が必要となるため、宗教の原論を論ずる本書では特に深入りしない。

拙著 『「天皇」の原理』(文薮春秋刊)がその格好のテキストとなつているので、興味のある方はご一読いただきたい。

(情報源:P−25日本人のための宗教・原論、小室直樹著、徳間書店、¥1,800)