2.佐渡国

 日本海に浮かぶ島、佐渡は大化改新後、−国とされたが、奈良朝天平年間、越後に併合された。だが、天平勝宝四年(752)再び一国とされた。伊弉諾・伊弉冉の国生み神話では日本列島、大八洲のうち第7番目に誕生した島、「佐度島」としている。 始めは1都のち、延書式内では雑太(サハタ)・羽茂(ウモ)・加茂の3郡の下国であった。国府・国分寺は真野町に置かれていた。佐渡の地名は狭い所、「サドコロ」が語源とされる。

 鎌倉時代の守護は大佛氏、守護代本間氏であった。以後、本間氏が勢力を伸ばす。天正年間、上杉領から豊臣政権の領有となり本格的な佐渡金山の開発が始まった。豪華絢爛の桃山文化の財源となる。その後、金山は江戸幕府の収入源として、文字通り「金脈」となった。世界の遺産、日光東照宮建造費の出どころは、この金山と石見銀山であった。 また、佐渡は聖武天皇、神亀元年(724)以来、速流の地と定められてきた。日蓮上人、正中の変の日野資朝ほか、承久の変後、隠岐へ配流された後鳥羽上皇の皇子、順徳上皇は、この佐渡で21年の配所暮らしの末、崩御された。真野町に御陵が残る。 明治に入り、相川の金山は三菱の手に移った。廃藩置県で佐渡県。のち、新潟県に編入された。

◎佐渡一宮度津孝申社(ワタツジンジャ)

         
〒952−0503 新潟県佐渡市羽茂町飯岡550−4 T乱0259−88−2030
  佐渡一宮は羽茂町飯岡集落の山麓にある度津神社である。小木港にほど近い。延書式内佐渡国九座の筆頭とされ、古来一宮とされてきた。文明2年(1470)6月、羽茂川大洪水のため、社地が流失し、由緒・縁起・古文書等がなくなったため、その創建の年月などは不明である。しかし、江戸時代、諸国一宮を23年がかりで歩いて巡拝し、F一宮巡詣記』を著した神道学者橘三喜が、廷宝6年(1678)9月、この地を訪れ調査、佐渡一宮は度津神社と実証した。佐渡二宮大目神社(真野町)・三宮引田部神社(真野町)。

●祭神 主神 五十猛命(イタケルノミコト大屋彦命)
配神 大屋津姫命(オオヤツヒメノミコト) 抓津姫命(ツマツヒメノミコト)
(主神の妹君)                (〃 〃)
                                       

 五十猛命は神々の系譜では須佐之男命の御子。稲荷神の宇迦御魂神・宗像三女神・須勢理姫命(大国主命正妃)とは兄弟姉妹関係にあたる。

 勇猛な神として、この名が与えられたという。父君須佐之男命とともに、新羅国へ天降下り、曾尸茂梨(ソシモリ)というところに住まれ、多くの樹木の種を持っておられた。しかし、朝鮮では、その種を播き尽くさず日本へ持ち帰り、全国に播種され、植林を拡げるられたという。妹神のお二方も兄君に協力されたと伝えられている。

●造船・航海・建築の神 領佐之男命と五十猛命は自ら船を造り、航海技術に精通されていたという。このため造船・航海等の神としても信仰されてきた。航海安全の神、「ワクツ」すなわち「津(ミナト)」を渡るの意味から度津神社と名付けられたと解釈する。

●新羅から筑紫・出雲を経由して、木の国紀伊へ渡られたという。和歌山市伊太祈曽に、五十猛・大屋姫・抓津屋姫の三神を祀る紀伊一宮ともいう旧官幣中社伊太郎曾神社が現存する。

●室町期、文明2年(1470)洪水のため社殿等流失。領主本間氏により羽茂八幡宮内に連座。八幡宮と併せ一宮八幡宮とされた。その後、橘三喜や村人の証言をもとに、社殿も八幡宮から分離され旧地へ戻され、明治4年(1871)国幣小社とされた。

●社殿 本殿覆屋根流造(宝永年間1704-09造営、昭和7年改築) 幣殿前面切妻造妻入正面三間側面二間

●神域は約1万u。社前に羽茂川が流れ、老杉・古松が繁茂し、背後の妹背山は桜や紅葉の名所で四季を通じて景勝の地である。境内に隣接して佐渡植物園がある。

●度津神は緑林を日本列島にもたらした植林の神様である。それにちなみ著名人の植樹がある。

 本間雅晴陸軍中将(1887-1946)佐渡出身、太平洋戦争昭和16年12月第14軍司令官。フィリピン攻略軍を指揮。戦後「パターン半島死の行進」の責任者として、不本意な処刑となった。親英リベラル派の軍人だった。悲劇の将軍といわれている。

 有馬頼底旧伯爵(1884−1957)旧久留米二十一万石殿様の御家柄。大正・昭和
の政治家で貴族院議員。子息に小説家故有馬頼義。一族に京都仏教会の重鎮、相国寺管長

有馬頼底老師がいらっしゃる。
 戦後、初代の中央競馬会理事長。年末のGIレース「有馬記念」は、この有馬伯の名に由来する。