平成16年11用23日(火)午前11時
               天正伊賀の乱敵味方鎮魂地球平和祈願
                 伊賀国−の宮敢国神社

                           
 全国−の宮巡拝会世話人代表 入江 孝一郎

壱岐団−の宮から始まった「元冠の役敵味方鎮魂地球平和祈願」はモンゴル・日本国の神仏により魂鎮することで、目に見えない力を信じない人が多い現代に於いて画期的な出来事であつた。それが刺激になり、北条氏の後裔が住した尾張国からの提案で、平成16年3用29日伊勢国水屋神社で北畠・織田軍敵味方鎮魂地球平和祈願が実現した。さらに伊賀国−の宮敢国神社太郎館学宮司が共鳴し、「天正伊賀の乱敵味方鎮魂地球平和祈願」が決まった。伊賀忍法を継ぐ子孫ばかりでなく甲賀忍法、戸隠忍者の子孫にも広く呼びかけ盛大なるものにしたいと敵味方鎮魂は、伊勢国から伊賀国へとつづいた。

古代から継承されてきた神道の鎮魂の儀式、先祖神崇敬、仏教の先祖供養は、理屈ではなく日常実行してきたのである。明治初年の神仏分離令は日本の歴史を否定する行為であった。21世紀になり、これを犯してきた誤りを訂正する行動が「敵味方鎮魂地球平和祈願」となった。敵も味方も、その犠牲となった者は、歴史に記されたまま、忘れられた存在になっている。

 この度、影の存在であった天正伊賀の乱での忍者に「敵味方鎮魂地球平和祈願」のスポットが当たることになった。この機会に是非、伊賀の里を訪れ、「伊賀を制すれば、天下を制する」といわれたという「伊賀忍者」の史跡に触れてみて下さい。多くの方のご参加をお待ちします。

 天正伊賀の乱
天正9年(1581)9月3日から17日までの15日間、織田信長による天正伊賀の乱は、忍者軍団への虐殺は−万人ともいわれ、根絶やむなしという伊賀国に壊滅的な打撃を与えたのである。それまで伊賀国は、社寺権門の荘園支配という古代的支配形態500年という長い間続き、信長の伊賀への侵攻まで続いたのである。

 伊賀の忍者
伊賀の忍者の歴史は古く、聖徳太子に仕えた大伴細人が元祖と伝える。平安時代には風鬼・火鬼・土鬼・隠形の下忍などを使って反抗した伊賀霧生の千方というものがいたという。盗賊熊坂長範は名張市の生まれ、源義経に仕えた伊勢三郎義盛の前身は盗賊で上野市の生まれである。平知盛の家来となった服部家長も上野市の生まれで、伊賀平氏のまともな家臣であり土着の豪族である。服部半蔵はこの系統である。伊賀国は「勅不入の地」として治外封建的な独立国のようになり、服部氏を中心とする土豪の勢力はふたたび回復した、服部総家とその分流とみられる百地、藤林などの家に分かれ、さらに鎌倉時代に東大寺の家来として伊賀国に入った大江氏も土豪化した。

南北朝の争乱期には伊賀忍者はほとんど南朝側につき楠木正成の配下の伊賀忍者四十八人が属し武功をあげた。正成の妹は伊賀忍者服部家の支家上島家と結婚し、猿楽師観阿弥を生んだ。猿楽師は忍者七方出の変化術のひとつである。平安時代から中世にかけて神出鬼没の山賊は鬼とか魔とかの名で呼ばれていた。戦国時代の伊賀国は完全な無領主であるから服部・百地・藤林の三家が対立して相互監視と防衛を怠らなかった。このことが忍法を工夫させ、技術がすすむ結果となった。それと他の有力武将にやとわれ偵察、謀略、奇襲などを行った。

服部当主の保長は、京都の足利将軍家に仕えたがのち徳川家康に仕えた。このため服部家は天正9年(1581)の信長の伊賀攻めにも助かり、かえって半蔵は翌年家康の伊賀越えを助け、江戸での伊買、甲賀両忍者の頭取となる基をつくった。

 中世の崩壊
織田信長は、中世から近世への扉を開く役割を与えられ、既存の勢力・規制や常識を破って破壊した。伊勢攻め・伊賀攻め、長島一揆の弾圧と逆殺をした。伊賀攻めでは−万人の忍者・家族を虐殺した。さらに比叡山焼討ち、石山本願寺攻めなど、時代は大きな転換期に多くの犠牲を要求し、多くの屍が積み上げられた。

                              

                     

日 時 平成16年(2004)11用23日(勤労感謝の日)11時
場 所 伊賀国−の宮敢国神社(〒518−0003 三重県上野市一之宮877)
祭 典 11時「天正伊賀の乱敵味方鎮魂地球平和祈願」並びに黒党(くろんど)まつり
     12時 直 会(実費1,000円・要予約)
     13時30分 黒党緊

ぉ問い合わせ 全国−の宮巡拝会・〒10ト0062 東京都千代田区神田駿河台3−7
      TEL 03−3294−1200 FAX 03−3294−3700