『歴史の研究』について
               
             A・J・トインビー(題字は松永安左エ門)
本書の目的はなにか


 本を著わすということの唯一の妥当な理由は、その著者が、とうてい書かずにはおれないという、やむにやまれぬ情熱に駆られるということに求められる。すべての作業が経験しているように、本を書くということは決して楽なことではない。従って、本を書きたいという気持ちがよほど強くなければ、その仕事を仕上げることは不可能である。或る人にとっては、書くということが楽しみであるかもしれないが、その楽しみとても、決して楽なものではないはずである。もちろん、書きたいから書くということは、なにもそれに目的がないということではない。強い欲望の陰には、その欲望を起こさせた強い目的というものが存在しているはずである。

 私が『歴史の研究』を書いた目的の一つは、歴史家の関心と活動を二分している部分的な歴史の研究と全体的な歴史の研究という二つの分野のバランスをとるということである。私は、歴史家の仕事を二分しているこの二つの分野のあいだには、なんらの基本的な矛盾ないし互いに相容れない対立はないと信じている。歴史家というものは、概観と個別的な事実の研究とを両立させなければ、歴史家ではありえない。だが、ともすれば歴史家の天秤は、個々の人物とか時代というもののために、その秤皿のいずれか一方が重くなりがちである。現代の西欧の歴史家の大半は、部分的な歴史の研究を重視しがちである。

 だが、すくなくとも現代の歴史家には「われわれは、未だ、為すべきことをしていない」という反省があってしかるべきではなかろうか。私の先輩や同輩の多くは、彼ら自らが扉を開いた記録類の宝庫の宝物によって、逆にとりこにされているという感じをよく抱かされたことを思いだす。森そのものよりも一本一本の木をするどく観察する。これが現代の歴史家たちがとってきた態度である。だが、われわれは、たえず森の観察と木の観察とのバランスをとる・・・・そのときどきに応じていずれの側に重点を置くにせよ・・・・ように努力すべきである。それゆえに、私は、私自身の仕事をとおして、焦点を木から森の方にひきもどすことを促進するのが使命だと感じたのである。これが本書を書いた目的のひとつである。
 われわれが、われわれの注意を歴史の概観という方向にもういちど向けなおすべき必要性は、現代に起こっている他のことがらによって裏づけられる。西欧の中世史や近代史の研究家たちがわれわれの西欧の古文書や記録をひもといている間に、考古学者たちは、すでに「死滅した文明」はもとより、何世紀の間忘れられていた文明を、つぎつぎに明らかならしめていった。この両者の互いに異なった知的活動は、われわれがもちあわせていた部分的な歴史知識を非常に向上させてはくれたが、それも同志はほとんど関連性をもたないで、それぞれ独自の道を歩んでる。どうして、それらを一緒にしようとしないのであろうか。 どうして、考古学者とか東洋学者とか古文書学者などの個々別々の業績によって明らかにされた諸文明を、総合的に観察しようとしないのであろうか。すべての文明を概観してみるということが、本書のいまひとつの目的である。

 さて、最後の目的は、私が深く心にかけている実際的なものである。歴史研究の分野において古文書学者や考古学者や東洋学者が互いになんら協力し合わないで、各自の研究を別々に続けているあいだに、実際生活の分野においては、全世界は、突如として技術家たちの「距離の克服」という業績によって、単一の世界社会になってしまった。この場合歴史家にできることが一つある。歴史家というものは、さまざまな文明に属する人々をお互いにもっと親密にすることができる。そして、彼らをしてお互い同志の歴史を理解しあい、正しく評価しあうようにし、それぞれの地方的ないし部分的な歴史の中に全人類に共通の業績とか財産があることを教えることができる。

 そうすれば、結果的には、お互い同志のあいだの恐怖心や敵意というものを減少させることになる。原子兵器や超音波誘導弾の時代においては、人類は一家族になるか、自滅するかのいずれかである。そして、われわれは一家族であり、また一家族を形成する道を歩みつづけてきたということ、これこそは、われわれが今日の全世界に焦点をあわせた際に見ることのできる幻である。歴史を概観するということは、今日の世界の実際的な要請の一つだ。と私は信ずる。その故に、わたしはこの分野における先駆的な研究は、それが近き将来において、よりよき収穫をもたらす多くの新しい研究者を輩出せしめる端緒ともなれば、自らその価値が立証されるであろう。と確信するのである。仮に本書がそのような意義をもつであるとすれば、私の予想した以上の大成功であるというほかない。

本書はいかにしてできたか

 『歴史の研究』のプランは、如何にして出来たか。私がはじめて慎重に本書の執筆にとりかかろうとしたのは、1920年の夏のことで、その骨子は、それ以前から私の頭のなかにあった。この最初の試験は失敗に帰したが、それは無理からぬことであった。というのは、私は、かのソフォクレスの『アンテイゴネ』の「あの不思議な生きもの、人間」という第二の合唱の批評というかたちでそれを書き上げようとしたからである。このような誤ったスタートをきった原因は、ギリシャやラテンの古典教育をうけたことにある。だがこの教育をうけていなかったならば、私は決して本書を書こうというような考えを起こしたりはしなかったであろう。私が、本書を書こうと思いたったのは、折から第一次世界大戦の勃発によって、突如として、われわれの世界はかってギリシャ世界がペロポネソス戦争において経験したと同じ経験を味わいつつあるということを感じたからにほかならない。

 私は、知覚のひらめきによって、ギリシャ史は、決して「古代」のものではなくて、現代の同時代的な意義を有している。ということを悟ったのである。それはギリシャ史と現代史とは、並べて比較することができる、という意味である。ところで私がギリシャ文明に興味を抱いたのは、古典の教育を受けたためであるが、それに対する接近の仕方が文学的ないし哲学的なそれでなく歴史的であるのは、いったい何故であろう。私は、この問に対しては、はっきりと答えることができる。それは、私の母が歴史家であったからであり、母の歴史への情熱が私のそれを燃え立たせたからである。母はとくにギリシャ史を専攻していたというわけではないが、私の歴史への情熱が母によって燃え立たせられたということと、私が通学していた頃は、まだウインチェスターの学校ではギリシャやラテンの古典の教育が重視されていなかったということとを考え合わせると、私がギリシャ史を専攻するにいたった理由は、十分にうなずける。

 それゆえに、本書を書こうという思いつきの芽は筆者自身の精神史のごく初期の時代に、筆者によって心のなかに植えつけられていたといえるわけである。私が本書の第二回目の企画を立てたのは、1921年9月17日に、汽車でアンドリアノーブルからニシュへ向かう途上に於てである。そして、こんどは成功した。私はその日のうちに、半紙の紙に概よそ十二の見出しを書き上げてしまった。しかもこれらの見出しは、ほとんどそっくりそのまま、現在十巻の書物となって刊行されている本書の十三部の表題になっている。

 このときには、プランを練るのにさほど慎重ではなかった。私は、汽車の窓から外の景色を眺めながら、その日をすごし、その間に頭に浮かんだプランを、夕方になっておおまかに書きとめたわけで、そのプランは、出来るべくしてひとりでに出来たかのごとき感があある。仮にこれが今回の成功をかち得ることの出来た原因の一半であるとすれば、他の一半は、私が私の主題に到達する方法を見出したということに求められる。私がその方法を得たのは、カリフォルニア在のアイルランド出身の一哲学者F・T・テガードからであるが、テガード自身は、それを、チユルゴーから得ていた。この十八世紀の偉大な天才チユルゴーは、われわれが歴史の比較研究をしようとする場合には、まず現存する諸社会の文化の地方差を研究することにつとめ、しかるのちに現代世界に於けるこの問題から過去へと研究を遡らせるべきだ、ということを理解していた。

 私のプランは、このようにして出来た。だが、このプランに基づいて本を書くための詳細なメモを作る準備が整ったのは、1927ー8年になってからのことである。私は、研究に着手するのをおくらさざるをえなかった。というのは、諸文明の比較研究というものは、ただたんに
私が生をうけた文明(西欧文明)と私が学んだ文明(ギリシャ=」ローマ文明)との比較に基づいてやるというわけにはいかないことが明白であったからである。私の目的を達するには、西欧史とギリシャ=ローマ史の知識を持ち合わせているということだけでは、不十分であった。その当時の私は、すでにピザンテイン史やイスラム史の研究に着手していたとはいえ、インド史とか中国史とか日本史とかコロンブス以前のメキシコやペルーのの諸文明については、初歩から学ばなければならなかった。

 
 そうこうするうちに、考古学者たちの努力によって、中国の殷文化とかパキスタンのインダス文化とかエーゲ地方のミノス文化のような多くの埋もれた文明や忘れられた文明が明らかになったので、大いに助かった。とはいえ、これらのきわめて貴重な新知識をことごとく吸収すということは、大変な仕事であった。私が1927-8年に書き上げた全巻のメモは、膨大な量にのぼった。だが、それらは満足すべきものではなかった。私が本を執筆し始めたのは、1929年にアジア各地を旅行してからであるが、その後、筆をすすめるにつれてメモは変化し進歩した。

 
 第五部で終わっている第六巻が刊行されたのは、1939年に、第二次世界大戦が勃発するちょうど41日前のことであった。そして、それにつづく七、八年間というものは、戦時活動に専念するために、執筆を中断することを余儀なくされ、第六ー十三部のメモは、安全に保存するために、ニューヨークへ送った。1947年の夏から未完成の部分の執筆に着手して、とうとう本書を完成することができたのは、このメモがあったからである。だが、ほかの言いかたをすると、本書を完成することができたのは、二十年もまえに作ったそれのメモを、実際にはもう一度ばらばらにして整理しなおしたからである。

 
というのは、仕事を再開したときには、すでにこのいくつかの大きな束をなしているメモは、それがつくられたのちに現れてきた新しい知識や経験という溶媒によって、ほとんど原形をとどめないまでに変化することを余儀なくされていたからである。実際のところ、私が仮に1954年現在に於ても、依然として1927-8年当時と同じような観点にたって歴史を眺めているとすれば、私はとうていこの仕事を完成することができなかったはずである。しかし、こまかい点ではいろいろな変化があったとはいえ、そのプランは1921年に作られて以来、すこしも変わらなかった。幸いにして本書がはじめからその統一を失わずにすんだのは、このためである。

                    1967年9月20日印刷 
                    1967年10月1日発行
         
                    著者   A・J・トインビー 
                    発行者  松永 安左エ門

                    東京都千代田区大手町  電力中央研究所内
                    発行所  「歴史の研究」刊行会   非売品

                    寄贈 43.2.16 横須賀市図書館 


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