地球日本史214_4
日米必戦論と「オレンジ計画」
日米開戦やむなし
ホーマー・リーの『日米必戦論』 (一九〇六年)は、黄禍論を日本に限定したうえで、マハン流の海上覇権論を重ねた未来論である。彼もまたドイツ皇帝同様に、英国は日英同盟を破棄して米国とアングロサクソン同士として連帯すべしというのだ。彼はなかなか戦略家で、辛亥革命の父・孫文の軍事顧問になっている。黄禍論者たちがもっとも恐れたのは日本軍の敢闘精神と中国の四億の民との結合である。米国人の親中感情をパール・バック女史の小説『大地』で説明するのは見え透いた欺瞞である。
「日本が飛躍的に発展しているのに、アメリカ合衆国は政党間の権力闘争に明け暮れている。国家の繁栄より個人のほうが大切で、戦争など無意味で悲惨なだけだと戦いを軽蔑する。こんなことだと不幸な結果は目に見えている」 (ホーマリー)ハドソン・マキシムの『丸裸のアメリカ』(一九一五年)はもっと露骨で具体的だ。「現在迫りつつある危機を認識させるために、アメリカ国民を鞭打たねばならない」と。本書刊行の前年に第一次世界大戦が勃発しているから表現がきつくなるのだろう。もしこのままの軍備で日米が衝突すれば、「日本軍は一ヶ月以内に二十五万の兵をアメリカ西海岸に上陸させるだろう」と。そしてもう一つ聞き捨てならないことをいっている。この大戦が終わったら、世界の重要問題を話し合うために米英独仏露からなる国際会議を開催するべ
きだが、「この集まりは親戚同士のものだから、日本は除外すべきである」と。
この種の本がたくさん出版され、そのいくつかがベストセラーになったことを軽視してはならない。そのころの米国は新聞、雑誌、放送などのメディアが急速に普及して、大衆社会化状況と政治家が急接近した時代だからである。そのよう
な世論を背景に、マハン提督とその弟子たちが、日露戦争直後から対日戦争を想定した「オレンジ計画」を策定し、更新しつづけてきたことに不思議はない。ただ最終目標として日本を「無条件降伏」に追い込むと明記されていたことに慄然とするばかりである。さて、第一次大戦が終わってパリ講和会議(一九一九年)が開かれる。そのときウッドロー・ウイルソン米大統領が国際連盟を提唱し、日本全権西園寺公望が人種差別撤廃決議を提案する。だが、日本提出の決議案は米国と英連邦諸国の反対で否決され、国際連盟はは米国議会の反対により米国抜きで発足した。
日本は愚直なまでに正直な理想を掲げたわけだが、米国の白人層にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。黄禍論の火に油を注ぐようなものだった。 歴史書はきまってウィルソンの「理想主義外交」と記述する。しかし、米国内で起こりうる人種差別による内訌(ないこう)の可能性を想像すると、ウィルソン大統領は理想しか語れなかったのだもいえる。むしろ、真の理想を語ったのは日本だっと。
ウィルソン大統領はロシア革命とレーニン外交をほめたたえたことで有名である。「いまや専制政治は排除され、それに代って偉大にして寛大なロシア国民がその穢れない威厳とカのすベてを投じ、世界の自由、正義、平和のための戦列に加わったのである」と。
シベリア出兵は当初、英仏米四カ国の合意ので行われ、パイカル潮、をたちまち制してオムスク
政権を誕生させた。地理的条件からして日本が最大限の貢献をした。もし四カ国が共同歩調をとりつづけていたら、二十世紀の世界はまったく別のものになっだろう。しかし、米国はいちはやく脱落して日本の足をつよく引っ張った。ウイルソンの理想は何だったかと問わねばならない。
ウィルソンは「革命」という言葉に幻想をいだくタイプの政治家だった。主義主義革命の恐ろしさも、レ−ニン外交の権謀術数にも無頓着すぎたといえるだろう。しかし、視点を、かえて、ホーマー・リーに喝采する日米必戦論者からは見れば、日本の孤立化と日中離間には十分にこたえて、のであった。(拓殖大学日本文化研究所長 井尻千男)サンケイ新聞地球日本史214_4
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