男性社会における「女の道」
武家社会に現われた″貞操観念″
『源氏物語』の「箒木」ほおきぎ)の巻」に「雨夜の品定(しなさだ)め」というのがある。ある雨の夜に光源氏や頭中将(とうのちゆうじよう)たちが集まって女性の品評をやる趣向で、女性を下品(げぼん)、中品、(ちゆうぼん)上品(じようぼん)の三つに分類などして楽しんでいるのであるが、これは男たちの口を借りて紫式部が自分の女性観を述べているのだと言われている。
       
そして、理想的な女性というのは「ただひとへに、物まめやかに、静かなる心の趣」の人だという。つまり、心がねじけておらずに自然で、ひたすらに実意があり、心の穏やかな、やさしい人がよいという結論らしい。この部分ではいろんなタイブの女性を実例を挙げながら批評するのだが、後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操が、ちっとも問題にならないのは面白いと思う。女性としての美質や欠点はいろいろあるが、道徳の臭みがまったくないのである。当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、それなりに家庭が乱れていたようである。源氏の例でも、範頼の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女、そのほか悪源太義平 の母も遊女、義経の母の常盤御前などは、短い間に三度も夫を換えているといった調子である。

ところが鎌倉幕府が出来るころになると、急に女性の道徳が引き締まってきた。「女の道」というような観念が出て、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えるようになり、家庭生活が厳粛になってきたのである。藤原氏の宮廷は、おそらく男女の道が最もゆるやかな時代で、ごく最近の欧米や日本の平均的女子大学生よりも、さらに異性関係が自由だったと思う。ところが、鎌倉以後の武家社会の女性 つまり人間の文明社会で知られた最もゆるやかほ碓道徳の社会が、一転して最も厳粛な性道徳の社会になるのである。そしてこの転換は頼朝・政子夫妻からはじまったことに間違いないと思われる。イギリスではヴィクトリア女王のときから宮廷のモラルが引き締まったというが、日本では幕府の創設者が女性モラルの創設者になったのである。
                    
頼朝の娘の大姫君は、木曾義仲の子の義高の妻であった。そして、この義高は鎌倉に人質になっていた。そのうち、頼朝と義仲の戦がはじまり、義仲は粟津で戦死し、義高は人質として当然斬られることになった。するとそれを知った大姫君は、父に背いて夫を逃がしてやる。頼朝は追手を向けて斬り殺させ、大姫君を別の男に嫁にやろうとするが、娘はそれを聞かず、夫のあとを追って自害するのである(このほかに気鬱が嵩じて病死したという説も有力である)。

 頼朝の娘が、のちの武士の奥方の原型となるような行為を示したのは、やはりその母、政子の影響のおかげであって、平安朝とは別種の女性が出現してくることになった。
                                      
「女の道」で権威を得た北条政子                               
 たとえばこんな話もある。京都の白拍子(芸者のようなもの)で義経の女になっていた静御前が、捕えられて鎌倉の八幡宮で舞いを舞うように命じられた。そのときに静は、

 ”静や静 静のおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな”
      
 と、義経を慕う歌をうたいながら舞った。平家追討では武勲第一であった自分の恋人義経は、今は兄の頼朝に追われて奥州にいる。それを悲しんで、切々たる追慕の気持ちを示したのである。 頼朝は、自分の面前で、現在手配中の叛逆人を慕う歌を聞かされたのであるから、怒った。 すると政子は、 「女の道というのはそういうものではありません。静が判官殿(義経)を慕いますのは、その昔、石橋山であなたが敗北なされてから、あなたのあとを慕って、私が方々で苦労したのと同じことでありますから、どうぞ許してやってください」  と取りなしたのである。頼朝も、「なるほど女の道とはそうあるべきものか」と感心して、褒美を与えられたという。
                     
  これは鎌倉時代の第一級史料である『吾妻鏡』 にくわしく出ている有名な話であって、「女の 道」という倫理が、強く武家社会に意識されるようになった記念碑的事件である。  このほかにも政子は「女の道」というのを、いろいろな場合に範例として示している。そうし て彼女の頼朝に対する貞節は大変なものであり、夫を大切にし、家を大切にする点において、その伝統はつい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである。

  また彼女は、男に男としての理想を持たせるコツも知っていたらしく、こんな話もある。 富士の巻狩に、政子の子の頼家が鹿を射たので、頼朝は妻を喜ばせたいと思い、特使を立てて知らせてやった。そうしたら政子は、「武将の子が鹿の一匹や二匹を射たところで何でもあるまいに、それを特使を立てて知らせるというのは、わが夫ながらその心がわからない」と、かえって批判したという。

  われわれも子どものころに、よく母などから「そんなことで男の子が大騒ぎするなんて」などとよく言われたものであるが、女性が男性に向かって、こういう発想をするのは政子以後のことであって、平安女性の伝統ではない。また政子は、例の承久の変で、主権在民の天皇制を作るのに絶大な関係があった(二九五ページ参照)。何はともあれ、天皇から幕府追討の命が下ったのである。鎌倉の武士も一時は迷ったと思われる。そのときに政子は安達城介(あだちじようのすけ) (義景)を通じて、こう言わせたのであった。
                     
「私の亡き夫、頼朝公が天下を平定し泰平の御代を開いた功は、たとえるものがなく大である。しかし今、讒言によって汚名をこうむっているが、頼朝公の功を思う者はこの鎌倉にとどまり、そうでない者は、即刻、京都に去るがよろしかろう」と。

 亡き大親分のネエサンにこう言われれば、そのおかげで大きなシマをもらった代貸したちが、直接に恩を受けたことのない京都の公家の味方になるわけはない。実質的に承久の変のオトシマエをつけた泰時は、政子の甥である。それに政子は、文字どおり朝廷を敬して遠ざけたふうなところがある。
                      
 承久の変ののちに、政子が京都に行ったとき、御白河法皇が会ってやろうと申された。これは関東の実力者に名誉な機会を与えてやろうというお気持ちから出たものらしい。しかし政子は、私は田舎の老婆で、宮中の礼儀も知りませんし、失礼なことがあるといけません。ご辞退します」 と言って参内しなかった。政子から見れば宮廷の女官などは、ふしだらな女どもにすぎない。そんな者たちに宮中の作法など、とやかく言われるのはいやだ、ということではなかったかと思われる。
                              
 政子が頼朝や武士たちに対して権威を保ち、頼朝死後は尼将軍などと言われるほどになったのは、自分の貞節と内助の功に絶対の自信があったからである。紫式部や清少納言はこういうような権威を男に対して持ちえない。そして政子は倹約であって、この伝統は松下禅尼のエピソードにも連なっている(編集部注・松下禅尼は北条時氏の妻。北条時頼を招いた折、わざと障子の破れた所だけを貼って、倹約を勧めたという)。

「日本の母」のイメージは鎌倉から
 このように考えると、われわれがつい最近まで「日本の母」としてイメージしてきたのは、政子の系統の女性であったらしい。自分は貞潔・倹約で女の道をよく守ると同時に、夫や男の子たちが男らしく振る舞うことを期待するという、あのタイブである。
                                        
 戦前の女の地位は低かったと言われるが、多少まともな家庭において、母親と息子が口論するということはまずなかったと思う。どんな偉くなった息子でも、ほとんど無学な母親に恭しく仕えた。それは「女の道」を厳しく守った女性に対する、自然の敬意によるものであった。
                                 
 ところが最近は、大学の文学部など出た才女の母親がどんどん増えているが、息子に対する押さえがまるで利かない。中流の家庭で母親と息子が口論するというのは、戦前にはめったになかった珍風景であったが、今ではそれが当たり前みたいである。 そこでは母親が「親」としてでなく、「才女」として息子に向かって理屈を言っているのだ。明らかに文化のバタソは、戦後に平安朝のほうに動いたようである。社会のあらゆる面で男を言い負かすような才女が出ており、男の魅力が武断でなく、公家型、俗に言えばフォーリーブス(アイドル・グループの名)型になっているのである。
                     
 新憲法自体が、唐制ならぬ米制に拠ったものであり、その法の適用の仕方にも、明らかに平安朝的なところが出てきているのが見受けられることは、すでに見たとおりである。 われわれにとって、まったく新しいように見える近ごろの男女間のモラルなどは、少しも新しくない。それは政子以前にもどっているだけである。日本人は厳と緩の両極を、すでに数百年前に体験しているのであるから、将来も驚くことはあまりなかろう。