中世から近世の扉を開く

       
                        織田信長の伊勢侵攻の鎮魂

信長軍の 凄ましい侵攻
織田信長の伊勢攻めでは、多くの敵味方、多くの人々が殺された。伊勢国、一の宮椿大神社は、延喜式内社として二千年余の歴史がある由緒をもつ神社であるが、社家山本氏が、織田軍に抵抗した為に神宮司ともに焼き払われ、多くの社僧が殺された。その後、神社は寂びれ、神宮寺は壊滅してしまった。第九十六代の故山本行隆宮司は、宮司を継いだ時は、伊勢国一の宮たるものが、こんな貧しい神社ではいけないと思った。今では伊勢国一の宮として立派な社殿が建っているが、社運が向いてきたのは昭和四三年からのことである。
山本宮司が寒中の禊ぎ行中、焼かれ滅ぼされた神宮寺の本尊が顕現され、思わず「必ず世に出してお守りします」と誓ってからである。山本宮司は、ニューギニア戦線二二二八部隊中、生還者十三人という壮絶な体験をしている。見えない世界を見てきた者の体内からの言葉であった。
 壱岐国一の宮を壱岐の人に知ってもらいたいと働きかけた結果が「元冠の役敵味方鎮魂地球平和祈願」である。敵味方、地球平和ということに注意していただきたい。世界平和でなく、地球平和というのは、生とし生きるすべてのもの、過去・現在・未来のことをさしているのである。それに触発されて「北畠・織田の敵味方鎮魂地球平和祈願」が、一の宮巡拝会員のはたらきで伊勢国で具体化する。


万と越す惨殺
織田信長は、中世から近世への扉を開く役割をもち、既存の勢力・規制や常識を破って破壊した。伊勢攻め・長島一揆の弾圧・虐殺などから比叡山焼討ち、石山本願寺攻めなど、時代は大きな犠牲を要求し、多くの屍を積み上げた。その出来事は歴史の中に記録され、やがて忘れ去られた。しかし、その事実は消すことはできない。やがては記録されたものの中から怨霊は世に働きかけてくる。いま、伊勢の北畠、信長の伊勢攻めについて知ってる人は少ない。伊勢国北畠氏は、村上天皇の皇子具平親王の子師房が源姓を賜り、その子孫が久我氏を称した村上源氏の五世の孫である。通親の後に掘川・久我・土御門・中院の四家に分れ、通親の孫中院雅家が洛北の北畠に住み、はじめて北畠を称した。その曽祖孫親房が南北朝の内乱に、終始南朝のために尽力し南朝の柱石と称された。親房・顕家が建武中興に際して奥羽地方を鎮めてより、その一族がこの地方に拠り、親房の第二子顕信および、その子守親は奥羽国司となり、子孫はその職を世襲して浪岡御所と称され津軽郡浪岡氏の祖となったといわれる。

伊勢国の国司北畠
 親房の第三子顕能は、建武二年(1335)伊勢国司に任じられた伊勢国北畠である。伊勢の一志郡多気に城を築き多芸御所と称された。その子孫は世伊勢国司の称をつぎ、南伊勢五郡と大和宇陀郡および志摩。熊野などに勢力をのばし、南朝の藩屏として、たびたび幕府軍と戦った。ことに顕能の孫満雅は、正長元年(1428)後亀山天王の皇を奉じて兵を挙げ、土岐氏と戦って敗死した。その一族は、大河内をはじめ、木造・田丸・坂内・星合・藤方・波瀬氏などである。満雅五世孫北畠具教は、八代三百年余の伊勢国国司家の地位を保った。戦国時代に伊勢国は小豪族が割拠し、北勢は四十八家、中勢の鈴鹿川一帯は閑氏一党が五家にわかれ、安濃郡(あのう)には長野工藤氏が割拠していた。南伊勢は北畠氏が有力な豪族で、これらの豪族が相互に対立連合をくりかえしている間に、尾張国では織田信長が”天下布武”の目的をかかげ統一に動き出した。

信長軍の第一回伊勢国侵入は、永禄十年(一五六七)に始まった。鈴鹿川河畔の神戸城の出城高岡城で北畠氏は信長軍」と対時した。翌年、再び攻め、信長の第三男信孝を神戸友盛の養子として神戸城を奪った。中伊勢の閑氏一党も信長にくだり、多度大社・椿大神社を焼き討ちにした。奥伊勢侵攻では、水屋神社は焼討ちされず御神木の大楠が残った。安濃の工藤家にも弟信包を入れて、これを傘下にした。永禄十二年(一五六九)南勢では、北畠氏の大河内城(松坂市)を攻め、五万の大軍にそなえて北畠具教は、多気からここに移って城を拡大修築して向かえた。激戦を交え国司父子勢は篭城で五十余日間城を支えた。その結果、信長の次男信雄(茶筅丸)を国司具房の養子にすることで家督の相続を条件に和議が成立した。具教は多気および大河

内の城を棄て、三瀬の古城に移り、三瀬御所として隠居していた。
 天正三年(一五七五)北畠具豊(ともとよ)(信雄)は田丸に移るに及んで大河内城の城郭も姿を消した。天正四年(一五七六)十一月、信雄の刺客によって殺された際、家臣芝山秀時は主人の首を多気に葬るため櫛田川まで来て秀時の父と出合つた。父は追手を逃れ具教の首をかたわらの山に放り、自ら馬もろともに滝壷に身を投じたという。櫛田川右岸に「北畠具教の首塚」の標識がある。ここから一キロほどに 「故伊勢国司前中納言正三位源具教之墓」としるした五輪塔がある。織田信長の北畠一族誅さつによって滅亡した。
          
 志摩国は、九鬼嘉隆(よしたか)の支配下であったが、信長の部下となり、信長水軍の将として活躍した。最後まで抵抗したのが長島の一向一揆である。木曽川のデルタ地帯によって、信長軍も苦戦、大湊で造らせた軍船で海上から攻撃してようやく平定した。信長は本願寺一向宗徒を二万人虐殺し、織田軍も相応の戦死者を出し、 伊勢・志摩国は織田信長の支配下になり、伊勢は滝川l一益が奉行として支配した。